篠原 助市
シノハラ スケイチ
大正・昭和期の教育学者 東京文理科大学名誉教授。
- 生年
- 明治9年6月6日(1876年)
- 没年
- 昭和32(1957)年8月2日
- 出生地
- 愛媛県周桑郡
- 旧姓(旧名)
- 越智
- 学歴〔年〕
- 東京高等師範学校〔明治38年〕卒,京都帝大哲学科〔大正5年〕卒
- 学位〔年〕
- 文学博士〔昭和9年〕
- 経歴
- 愛媛県、福井県の小学校訓導、師範学校教諭を経て大学、大学院に学び、奈良女子高等師範学校教授となった。次いで東京高師、東北帝大各教授ののち昭和5年東京文理大教授となり、文部省督学官、教育調査部長を兼任。16年退官、東京文理大名誉教授。新カント派などドイツ批判哲学に依り、大正時代の教育改造運動、新学校運動に影響を与えた。昭和に入りファシズム化とともに民族主義的傾向に走ったが、敗戦で再び転向した。著書「批判的教育学の問題」「理論的教育学」「学校原論」「訓練原論」、自伝「教育生活五十年」がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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篠原助市 (しのはらすけいち)
生没年:1876-1957(明治9-昭和32)
教育学者。愛媛県に生まれる。東京高等師範学校,京都帝国大学に学び,東京高等師範学校,東北帝国大学,東京文理科大学教授を歴任,教育学を講じた。教育の任務は,〈自然の理性化〉と〈人の歴史化〉にあり,教授の本質は単なる受動でも,自由な発動でもなく,両者を弁証法的に止揚した〈受動的発動〉であると説いた。ドイツ観念論哲学および教育学の影響のもとで,とくに教授の弁証法的把握に関し独自の見解を示した。《理論的教育学》(1929),《教育学》(1939),《教授原論》(1942),《訓練原論》(1950),《欧州教育思想史》(1950)などの著作がある。
執筆者:柴田 義松
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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篠原助市
しのはらすけいち
[生]1876.6.6. 愛媛
[没]1957.8.2. 湯河原
教育学者。 1916年京都大学哲学科卒業。奈良女子高等師範学校講師を経て,19年東京高等師範学校教授。 22年欧米に留学ののち,23年東北大学教授,30年東京文理科大学教授,文部省督学官兼調査部長などを兼任,41年同大学名誉教授。ドイツ教育思想を紹介するとともに,新カント派の哲学,文化教育学の影響のもとに独自の教育学の確立に努めた。主著『教育学綱要』 (1926) ,『理論的教育学』 (30) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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篠原助市 しのはら-すけいち
1876-1957 大正-昭和時代の教育学者。
明治9年6月6日生まれ。東北帝大教授などをへて,昭和5年東京文理大(のちの東京教育大)教授。ドイツの批判哲学にもとづく教育論は,大正時代の新教育運動に影響をあたえた。のち文化教育学の立場から民族主義を絶対化。戦後は民主主義による新教育を追求した。昭和32年8月2日死去。81歳。愛媛県出身。京都帝大卒。旧姓は越智。著作に「理論的教育学」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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篠原助市【しのはらすけいち】
教育学者。愛媛県生れ。東京高等師範(のち東京教育大学),京大哲学科卒。東京文理科大(のち東京教育大学)教授。ドイツの教育思想を紹介し,批判哲学に立つ観念論的教育哲学を確立した。文化価値を人間形成の作用に即して構造づけることに努め,個性の歴史化を主張。主著《理論的教育学》《欧州教育思想史》。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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篠原 助市 (しのはら すけいち)
生年月日:1876年6月6日
大正時代;昭和時代の教育学者
1957年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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