篠塚流(読み)シノヅカリュウ

デジタル大辞泉 「篠塚流」の意味・読み・例文・類語

しのづか‐りゅう〔‐リウ〕【×篠塚流】

日本舞踊流派の一。文政(1818~1830)のころ京都の篠塚文三郎が志賀山流幸若舞こうわかまいなどを取り入れて創始。明治以後、井上流に押されて衰えた。

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精選版 日本国語大辞典 「篠塚流」の意味・読み・例文・類語

しのづか‐りゅう‥リウ【篠塚流】

  1. 〘 名詞 〙 上方舞踊の流派の一つ。文政年間(一八一八‐三〇)京都の篠塚文三郎が、佐渡島流や志賀山流などに幸若舞を取り入れて創始。京都で継承されたが、明治以後、井上流に圧倒され衰えた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「篠塚流」の意味・わかりやすい解説

篠塚流
しのづかりゅう

日本舞踊一流派。上方京舞の一つ。京都の歌舞伎舞踊振付師として活躍した1世篠塚文三郎が始めた。文三郎は歌舞伎俳優であったが,佐渡嶋流,志賀山流の歌舞伎舞踊や幸若舞を学んで一流を開いたと伝えられる。3世中村歌右衛門の取立てで,文政年間頃から劇場振付師として頭角現し,天保1 (1830) 年には山村友五郎 (山村流祖) と並び称されたが,弘化年間 (44~48) に没したらしい。2世は1世の子で天保 11年に2世文三郎を襲名,劇場振付師を兼ねたが,のち舞に専心して篠塚流を大成座敷舞と舞台芸を巧みに折衷した京都特有のものとして,京都の花街をほとんど傘下収め,京都の舞踊の主流をなした。2世の子3世文三は私行上の問題などで名古屋に移り,1886年に没したが,井上流に押されて衰退した。

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デジタル大辞泉プラス 「篠塚流」の解説

篠塚流

日本舞踊の流派のひとつ。上方舞。化政期の京の振付師、篠塚文三郎が創流。明治初期までは京舞の主流派だったが、井上流におされ衰退した。

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世界大百科事典(旧版)内の篠塚流の言及

【鴨川をどり】より

…春には京都の花街舞踊がいっせいに開幕されるが,鴨川をどりは都をどりと並んでその代表的なもの。1872年(明治5)に創立され,幸若舞と歌舞伎舞踊を採り入れて流派を開いた篠塚流が振付を担当し,中西蝶二(劇作家,劇評家,1875‐1937),山岸荷葉(小説家,1876‐1945),林悌三(舞台美術家,1911‐78)等によって新味のある舞踊が上演されたが,いまもその伝統が残っている。最近は東京の尾上菊之丞が振付に当たっている。…

【京舞】より

…上方の舞は,朝廷に仕えた公家の女官などが手すさびにたしなんだ御殿舞から派生した舞と,大坂の歌舞伎から派生し,町師匠によって広められた座敷舞とがあり,京舞は前者の系統。幕末から明治初年にかけて,京の舞は篠塚流が盛んであったが,実力をそなえた統率者がおらずしだいに衰微し,明治に入って3世井上八千代の率いる井上流が隆盛を迎えて以来,京都はえぬきの流派は井上流だけとなった。したがって現在京舞といえば井上流の舞を指す。…

【日本舞踊】より

…さらに新舞踊からも新流派はあり,藤蔭流,五条流,林きむ子(1886‐1967)の林流,西崎緑の西崎流がある。上方舞では篠塚文三郎(?‐1845)を祖とする篠塚流,井上八千代の井上流,山村友五郎による山村流,楳茂都(うめもと)扇性の楳茂都流,吉村ふじ(?‐1909)の吉村流等がある。歌舞伎舞踊【菊池 明】。…

※「篠塚流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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