上方舞(かみがたまい)のうちの一つ、京舞とよばれる。近衛(このえ)家に仕え、舞を身につけた井上サト(初世井上八千代。1767―1854)を流祖とする。芸、人ともに優れた者が家元を継ぐ習わしであり、5世を数える。その舞の系列には、おもに御所風の上品な立居振舞(たちいふるまい)や白拍子舞(しらびょうしまい)の流れをくむもの、能の金剛(こんごう)流に学ぶもの、人形浄瑠璃(じょうるり)の人形の動きを加味したもの、地唄(じうた)による座敷舞などがあげられ、さらにまたこれらの技法が渾然(こんぜん)一体となって趣(おもむき)を深めている。「都をどり」の振付けから祇園(ぎおん)との結び付きが強固になったことも知られている。歌舞伎(かぶき)畑の作品もあり、地の音楽も地唄のほか義太夫(ぎだゆう)、長唄、常磐津(ときわず)、清元、一中節(いっちゅうぶし)など多種にわたる。特色ある独特の曲も多く、『信乃(しの)』『小栗曲馬(おぐりきょくば)物語』『意見曽我(そが)』などもその一例。
[如月青子]
『後藤勝一写真『京舞 井上流』(1984・歩書房)』
近世砲術の一流派。流祖は井上外記正継(げきまさつぐ)(?―1646)。外記流ともいう。正継は播州(ばんしゅう)英賀(あが)の城主井上九郎左衛門正信(まさのぶ)の孫で、通称は九十郎。稲富(いなとみ)流はじめ諸流を修めてこれに創意工夫を加えて一派を開いた。1614年(慶長19)大坂の陣に酒井雅楽頭忠世(うたのかみただよ)の組に属して大筒を預かり、その功によって采地(さいち)500石を与えられた。35年(寛永12)幕命によって従来の大筒に改良を加え、南蛮銅を用いて各種鉄砲100余丁を作製した。これらは目方も10分の1、操作も容易で、射程も8町から40町(約4キロメートル)に及び、命中精度も良好であった。38年御鉄炮(おてっぽう)御用役に任じられ、与力5騎、同心20人を預けられ、500石加増、1000石を領した。『武極集』『玄中大成集』『遠近智極集』の三部書をはじめ多数の著述がある。46年(正保3)同役の稲富喜大夫直賢(なおかた)と術技のうえで確執を生じ、同年8月15日小栗長右衛門宅における和解の席上、口論刃傷(にんじょう)に及んで横死した。1666年(寛文6)正継の養子左大夫正景(さだゆうまさかげ)(1618―83)が召し返されて御鉄炮役に復し、以後幕末まで子孫相次いでこの流儀を伝えた。
[渡邉一郎]
『『寛政重脩諸家譜』第4(1964・続群書類従完成会)』
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…上方の舞は,朝廷に仕えた公家の女官などが手すさびにたしなんだ御殿舞から派生した舞と,大坂の歌舞伎から派生し,町師匠によって広められた座敷舞とがあり,京舞は前者の系統。幕末から明治初年にかけて,京の舞は篠塚流が盛んであったが,実力をそなえた統率者がおらずしだいに衰微し,明治に入って3世井上八千代の率いる井上流が隆盛を迎えて以来,京都はえぬきの流派は井上流だけとなった。したがって現在京舞といえば井上流の舞を指す。…
…さらに新舞踊からも新流派はあり,藤蔭流,五条流,林きむ子(1886‐1967)の林流,西崎緑の西崎流がある。上方舞では篠塚文三郎(?‐1845)を祖とする篠塚流,井上八千代の井上流,山村友五郎による山村流,楳茂都(うめもと)扇性の楳茂都流,吉村ふじ(?‐1909)の吉村流等がある。歌舞伎舞踊【菊池 明】。…
※「井上流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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