篠山城下(読み)ささやまじようか

日本歴史地名大系 「篠山城下」の解説

篠山城下
ささやまじようか

篠山藩五万石(あるいは六万石)城下町。篠山は笹山とも記され、古くは日置ひおき黒岡くろおか村のうちの小丘陵で、春日神社が祀られ,戦国期には波多野氏勢力下の篠山氏の居城篠山城が置かれていた。城地は黒岡村のほか、岡屋おかや村・野中のなか村域にわたっていた。

〔城下町の建設と展開〕

慶長一四年(一六〇九)一二月には八上やかみ城主の松井松平康重が篠山新城に移ったとされるので(「篠山旧記御城取立」渋谷家文書)、これと並行して城下町の建設も推進されたと考えられるが、武家地は割合早くに整備されていったとしても、町人地の町割または町人の居住は江戸時代中期まで遅々として進まなかったようである。城下町内を通る山陰(京街道)は屈曲を繰返し、溝・竹藪を設けていた。春日神社は北のいしつぼに移したほか、城下の鬼門や街道筋の要所に八上城下から寺院を移建させている。外堀の内側に東部・西部ともに重臣屋敷を置き、北部に奉行所・代官所・地方役所や対面所(元禄年間「篠山城図」小前家蔵)などを配していた。堀の外の武家地はほぼ四方に割られ、篠山城の北方、大手筋の町人地の北側に北堀端きたほりばた小姓こしよう町・二十軒にじつけん町・八軒はちけん町・持筒もちづつ組・まち組・ごう組が置かれ、東手の外堀と黒岡川の間に東堀端ひがしほりばた餌差えさし町・かわの町・石上寺前いわがみてらまえ町・石上寺横いわがみてらよこ町・割場裏わりばうら町・割場後わりばあと町・はまぐり小路が続いた。その東側に町人地がある。南方の外堀と篠山川の間には南濠端・しん町・六軒ろつけん町・由良ゆら町・小川口おがわぐち矢竹やたけ厩口うまやぐちはた組・調練場・監物けんもつが連なり、西方の外堀と岡屋村の間には西堀端御徒士おかち町・石山横いしやまよこ町・中小路なかこじ・下小路が割置かれていた。武家屋敷は商人町の町家の三倍とされ、寛延二年(一七四九)に城内一五軒・家中一二八軒・切米取一七四軒・足軽衆三四八軒・長屋九軒で、約三千三七五人を数えたという(「御得替之節書物控」青山歴史村史料館蔵)。南門を出て南馬出しを西に向かうと藩校の振徳しんとく堂がある。

慶長一五年八上の町家を篠山に移すことを決め、家老の岡田内匠が地割を行い、同年中に町家が建てられ始めたという。八上からの移住があったとされるのは二階にかい町・魚屋うおや町・呉服ごふく町の三ヵ町で、いずれも城北にあたる。また領内の宮田みやだ町・味間新あじましん町・追入おいれ町など交通や流通の拠点として町場を形成していた商家も新城下への来住を命じられている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報