紫香楽宮跡(読み)しがらきのみやあと

日本歴史地名大系 「紫香楽宮跡」の解説

紫香楽宮跡
しがらきのみやあと

[現在地名]信楽町黄瀬 ハンシ、牧 葭ヶ谷・イモウ

内裏野だいりのまたは寺野てらのと称される小丘陵に立地。大正一五年(一九二六)紫香楽宮跡として国の史跡に指定されたが、昭和五年(一九三〇)以来の発掘調査によって東大寺式の伽藍配置をとる寺院遺構であることが判明した。建物は南から中門・金堂講堂が南北に並び、金堂と講堂の間の両側、東に鐘楼、西に経楼が配され、講堂の北には三面僧房が置かれる。その北に東西に細長い僧房に関連したとみられる小子房がある。金堂の東方には塔院があって築地塀に囲まれた五重塔が想定され、小子房の東方の一段低い地点には食堂とみられる遺構が認められる。さらに小子房の北東には閼伽あか池と呼称される池が存在する。これら主要遺構が東西一〇六・二メートル、南北一一五・二メートル内に広がり、出土遺物には軒丸瓦・軒平瓦などの瓦類や鉄釘などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「紫香楽宮跡」の解説

しがらきのみやあと【紫香楽宮跡】


滋賀県甲賀(こうか)市信楽(しがらき)町にある宮殿跡。松林に覆われた東西90m、南北110mにわたる丘陵地に位置し、聖武天皇恭仁宮(くにのみや)から東北への道を拓いてこの地に造営した離宮奈良時代の742年(天平14)、現在の京都府木津川市に恭仁宮を造営中だった天皇が、たびたび行幸して3年後に改めて正式の皇居と定めた。1926年(大正15)に国の史跡に指定されたが、ゆるい坂道を上ると金堂跡があり、背後を囲むように僧坊跡や経堂跡、鐘楼跡、塔院跡などの礎石が並んでおり、現在では甲賀寺または近江国分寺の跡ではないかと考えられている。一方、2000年(平成12)、ここから北へ2kmの宮町遺跡の中心部から巨大な建物群が発掘され、宮町遺跡が実際の紫香楽宮跡とみなされるようになった。2005年(平成17)に宮町遺跡を含む19.3haが追加指定を受けた。信楽高原鐵道信楽線紫香楽宮跡駅から徒歩約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

知恵蔵 「紫香楽宮跡」の解説

紫香楽宮(しがらきのみや)跡

滋賀県甲賀市で奈良時代に聖武天皇が造営したとされる宮町遺跡で、2003年11月、中枢部の朝堂西脇殿の西側に東西14.8m、南北5.8mの建物を配置するなど独自の形式だったことが分かった。長さ113mの東脇殿を始め殿舎、門、塀跡などがこれまでに判明。本格的な宮造りだったとされている。

(天野幸弘 朝日新聞記者 / 今井邦彦 朝日新聞記者 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

世界大百科事典(旧版)内の紫香楽宮跡の言及

【紫香楽宮】より

… いっぽう〈甲賀宮国分寺〉の名が天平勝宝3年(751)《奴婢見来帳》にみえる。信楽町雲井に残る礎石群は紫香楽宮跡とよばれるが,伽藍配置(東大寺式の変形)の跡を示し,中門跡の北に金堂,講堂,僧房,小子房跡があり,中門跡から回廊跡が東西にのび,北に折れ鐘楼,経楼跡に結び,これらの伽藍跡の東に塔院(中門,塔,回廊)跡があり,小子房跡の東は食堂跡らしい。以上の雲井遺跡と紫香楽宮,甲賀寺,甲賀宮国分寺の関係について諸説がある。…

※「紫香楽宮跡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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