細川潤次郎
ほそかわじゅんじろう
(1834―1923)
明治時代の洋学者、法務官僚。名は元(はじめ)、十州と号した。土佐藩の儒者延平の子として生まれ、藩黌(はんこう)に学んだのち、長崎で蘭学(らんがく)および高島流砲術を、さらに江戸幕府の海軍操練所で航海術を修めた。土佐藩致道館藩書教授となり、藩の子弟を教育、また蒸気船の重要性を説き、軍艦取調御用掛に任ぜられ、その購入にもあたった。中浜万次郎に英語を学び、英文の世界地図を翻訳している。明治維新後は開成学校権判事(ごんのはんじ)に任ぜられ、新聞紙条例や出版条例の起草にもあたった。民部省から工務省に転じアメリカに留学。帰国後、文部省、左院、正院、元老院などの要職についた。陸海軍の刑法審査総裁、日本薬局方編纂(へんさん)総裁など法制面で活躍し、司法大輔(たいふ)兼議官ともなった。枢密顧問官、貴族院議員、同副議長、また女子高等師範学校長、華族女学校長などを歴任。著書に『山内一豊(やまうちかずとよ)夫人伝』『明治年中行事』などがある。また『古事類苑(るいえん)』の編纂総裁。文学博士。
[菊池俊彦]
『「会員細川潤次郎の伝」(『東京学士会員雑誌』所収・1891・東京学士院)』
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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細川 潤次郎
ホソカワ ジュンジロウ
- 肩書
- 枢密顧問官,貴院議員(勅選),元老院議官
- 別名
- 幼名=熊太郎 諱=元 号=十洲
- 生年月日
- 天保5年2月2日(1834年)
- 出生地
- 土佐国高知(高知県高知市)
- 学位
- 文学博士〔明治42年〕
- 経歴
- 土佐藩校に学んだ後、長崎や江戸で蘭学・兵法・航海術・英学を修めて、帰藩し、藩政改革に着手。維新後、明治2年に学校権判事となり、開成学校を開く。新聞紙条例・出版条例の起草を行った。4年工部少丞として米国留学を命ぜられ、帰国後少議官、中議官、二等議官と進み、6年印刷局長、9年元老院議官となり、刑法草案、治罪法草案の起草に参画。会社条例編纂にも携わる。23年元老院廃止に伴い、貴院議員に勅選、24年副議長に推される。26年〜大正12年まで枢密顧問官。この間、女子高等師範学校校長、華族女学校校長など兼任。明治33年男爵。著書に「十洲全集」(全3巻)がある。
- 没年月日
- 大正12年7月20日
出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報
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細川 潤次郎
ホソカワ ジュンジロウ
江戸時代末期〜大正期の法制学者,男爵 枢密顧問官;貴院議員(勅選);元老院議官。
- 生年
- 天保5年2月2日(1834年)
- 没年
- 大正12(1923)年7月20日
- 出生地
- 土佐国高知(高知県高知市)
- 別名
- 幼名=熊太郎,諱=元,号=十洲
- 学位〔年〕
- 文学博士〔明治42年〕
- 経歴
- 土佐藩校に学んだ後、長崎や江戸で蘭学・兵法・航海術・英学を修めて、帰藩し、藩政改革に着手。維新後、明治2年に学校権判事となり、開成学校を開く。新聞紙条例・出版条例の起草を行った。4年工部少丞として米国留学を命ぜられ、帰国後少議官、中議官、二等議官と進み、6年印刷局長、9年元老院議官となり、刑法草案、治罪法草案の起草に参画。会社条例編纂にも携わる。23年元老院廃止に伴い、貴院議員に勅選、24年副議長に推される。26年〜大正12年まで枢密顧問官。この間、女子高等師範学校校長、華族女学校校長など兼任。明治33年男爵。著書に「十洲全集」(全3巻)がある。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
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細川潤次郎 ほそかわ-じゅんじろう
1834-1923 幕末-大正時代の法制学者,教育家。
天保(てんぽう)5年2月2日生まれ。土佐高知藩士。藩政改革に参画し「海南政典」を編集。維新後,開成学校権判事となり,新聞紙条例,出版条例を起草した。明治9年元老院議官,23年貴族院議員,26年枢密顧問官。女子高等師範校長,学習院院長心得などをつとめた。大正12年7月20日死去。90歳。名は元(はじめ)。号は十洲。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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細川 潤次郎 (ほそかわ じゅんじろう)
生年月日:1834年2月2日
江戸時代-大正時代の法学者;官僚。貴族院議員;文学博士;男爵
1923年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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