綱島梁川(読み)ツナシマリョウセン

デジタル大辞泉 「綱島梁川」の意味・読み・例文・類語

つなしま‐りょうせん〔‐リヤウセン〕【綱島梁川】

[1873~1907]思想家評論家。岡山の生まれ。本名、栄一郎。「早稲田文学」の編集に従事。胸を病んでから神秘的宗教観に基づく随想を発表、当時の青年層に影響を与えた。著「病間録」「回光録」など。

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精選版 日本国語大辞典 「綱島梁川」の意味・読み・例文・類語

つなしま‐りょうせん【綱島梁川】

  1. 哲学者、評論家。岡山県出身。本名栄一郎。少年期に受洗しキリスト教を身につけ、坪内逍遙大西祝思想感化を受け、多くの文芸、哲学評論を執筆。のち、闘病生活のかたわら神秘的宗教観に基づく随想を書いて、一部の青年層に大きな影響を与えた。特に見神の実験は有名。著「病間録」「回光録」など。明治六~四〇年(一八七三‐一九〇七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「綱島梁川」の意味・わかりやすい解説

綱島梁川(つなじまりょうせん)
つなじまりょうせん
(1873―1907)

明治の思想家、倫理学者。岡山県生まれ。本名栄一郎、梁川郷里にちなむ号。1887年(明治20)高梁(たかはし)教会で受洗。1892年東京専門学校早稲田(わせだ)大学の前身文科に入学、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)、大西祝(おおにしはじめ)に私淑した。1895年卒業後、同校の関係者が組織していた哲学会に入会し、哲学・思想問題の研究に励むとともに『早稲田文学』の編集に従事した。1896年喀血(かっけつ)し逗子(ずし)、神戸に転地療養を余儀なくされた。病床での宗教的煩悶(はんもん)を経たのち、梁川はしだいに自我の拡大を通して直接的、体験的に永遠の実在と一致契合しようとする神秘的傾向を深めていったが、こうした傾向は1904年(明治37)7月の「見神(けんしん)の実験」で頂点に達した。この体験が翌1905年雑誌『新人』に発表され大きな反響をよんだ。見神において梁川は「吾(わ)れは『神の子』也(なり)」という神人父子関係を実感し、神の精神的人格性と永遠の生命を確信した。梁川の見神の実験は、自我の充足と精神的実在を求め彷徨(ほうこう)する同時代の青年層に、内省的、体験的な示唆を与えるものであった。

[田代和久 2016年9月16日]

『『梁川全集』10巻・別巻1(1921~1925・春秋社/復刻版、全10巻・1995・大空社)』『虫明颯・行安茂編『綱島梁川の生涯と思想』(1981・早稲田大学出版部)』


綱島梁川(つなしまりょうせん)
つなしまりょうせん

綱島梁川

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20世紀日本人名事典 「綱島梁川」の解説

綱島 梁川
ツナシマ リョウセン

明治期の哲学者,思想家,評論家



生年
明治6年5月27日(1873年)

没年
明治40(1907)年9月14日

出生地
岡山県上房郡有漢村

本名
綱島 栄一郎

学歴〔年〕
東京専門学校(現・早稲田大学)文科〔明治28年〕卒

経歴
明治25年上京し、勉学のかたわら本郷教会、市ヶ谷教会などに出席。東西の文学、哲学に親しみ、徐々に教会から離れる。「早稲田文学」の編集を手伝い、27年同誌に「おもしろし」を発表。28年哲学会に参加。29年喀血し、神戸で療養中に海老名禅正を訪ね、以後密接な関係をもつ。30年から文芸、美術評論に活躍し、32年「日本教育」の主筆となる。37年突如光耀の経験を得、38年「予が見神の実験」を発表、大反響を呼んだ。著書に「スチーブン倫理学解説」「西洋倫理学史」「梁川文集」「病間録」「回光録」などがある。

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朝日日本歴史人物事典 「綱島梁川」の解説

綱島梁川

没年:明治40.9.14(1907)
生年:明治6.5.27(1873)
明治時代の評論家。本名栄一郎。岡山県生まれ。若き日キリスト教に受洗し,東京専門学校(早大)で坪内逍遥や大西祝 に学ぶ。夏目漱石からも英語を教わった。明治28(1895)年卒業,『早稲田文学』の編集を手伝い,高山樗牛 との歴史画論争で力を示す。喀血を繰り返しつつ,次第に文章にも宗教性が濃くなった。安倍能成,魚住折蘆などの若者が,梁川を訪ねたりもした。明治37年に突如光耀の経験を得,それを『予が見神の実験』(1905)に書き,大反響をまき起こした。若者への影響は大で,『梁川文集』『病間録』(ともに1905年)は多数の読者を得た。晩年には『回光録』(1907)がある。<参考文献>川合道雄『綱島梁川の宗教と文芸』

(中島国彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「綱島梁川」の解説

綱島梁川 つなしま-りょうせん

1873-1907 明治時代の評論家。
明治6年5月27日生まれ。キリスト教に入信。東京専門学校(現早大)で坪内逍遥(しょうよう),大西祝(はじめ)にまなぶ。「早稲田文学」の編集にたずさわり,文芸・美術評論を執筆。肺結核の進行とともに宗教的思索をふかめ,明治38年「予が見神(けんしん)の実験」を発表して反響をよんだ。明治40年9月14日死去。35歳。岡山県出身。本名は栄一郎。著作に「病間録」「回光録」など。
【格言など】世にありては誰かこの苦き涙なからむ,されど神を信ずるものの涙には常に光輝あり

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「綱島梁川」の意味・わかりやすい解説

綱島梁川
つなしまりょうせん

[生]1873.5.27. 岡山
[没]1907.9.14. 東京
宗教思想家。本名は栄一郎。 19歳のとき上京して,坪内逍遙に師事。東京専門学校卒業後,『早稲田文学』の編集にあたった。文学,美学の評論家として,『悲哀の高調』 (1902) をはじめ浪漫的,宗教的な美文を発表。のち大西祝 (はじめ) に学んで倫理,宗教に関心を向け,『快楽派倫理学説』『西洋倫理学史』を著わした。胸を病んで病床で『病間録』 (05) ,『回光録』を書いて,神秘思想を説き,青年層に大きな影響を与えた。『綱島梁川全集』 (10巻,21~23) がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「綱島梁川」の解説

綱島梁川
つなしまりょうせん

1873〜1907
明治時代の評論家
本名は栄一郎。岡山県の生まれ。東京専門学校(現早稲田大学)卒業。在学中より『早稲田文学』を編集。初め美術評論,のち宗教・倫理学の研究,見神 (けんしん) (心の中に神を見ること)の実験などで新神秘主義思想を提唱した。

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百科事典マイペディア 「綱島梁川」の意味・わかりやすい解説

綱島梁川【つなしまりょうせん】

キリスト教思想家,評論家。本名栄一郎。岡山県生れ。若くして入信したが,のち正統信仰に対して懐疑的となり,晩年は神秘主義に傾いた。著書《病間録》(1905年),《回光録》(1907年)など。

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367日誕生日大事典 「綱島梁川」の解説

綱島 梁川 (つなしま りょうせん)

生年月日:1873年5月27日
明治時代の宗教思想家;評論家
1907年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の綱島梁川の言及

【有漢[町]】より

…岡山自動車道のインターチェンジがある。明治の思想家綱島梁川の生地であり,重要文化財指定の臍帯寺の石幢などがある。【上田 雅子】。…

※「綱島梁川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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