早稲田文学(読み)ワセダブンガク

デジタル大辞泉 「早稲田文学」の意味・読み・例文・類語

わせだぶんがく【早稲田文学】

文芸雑誌。明治24年(1891)早稲田大学の前身東京専門学校文学科の機関誌として創刊。坪内逍遥が主宰し、森鴎外との間に没理想論争を展開。明治31年(1898)休刊。第二次は明治39年に(1906)島村抱月が再刊、正宗白鳥らが参加し、自然主義の牙城となった。昭和2年(1927)廃刊。その後も断続的に刊行、数次を重ね現在に至る。→三田文学

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精選版 日本国語大辞典 「早稲田文学」の意味・読み・例文・類語

わせだぶんがく【早稲田文学】

  1. 文芸雑誌。東京専門学校(のち早稲田大学)文学科機関誌として明治二四年(一八九一)一〇月創刊。坪内逍遙が森鴎外との間に展開した没理想論争、戯曲「桐一葉」などで活躍、他に島村抱月、綱島梁川金子筑水らの評論活動が目立った。明治三一年一〇月休刊。同三九年一月、抱月を中心に復刊。相馬御風・片上天弦・正宗白鳥・小川未明・秋田雨雀・近松秋江、外部から田山花袋・岩野泡鳴・島崎藤村・徳田秋声らの参加を得て自然主義の牙城となった。大正期(一九一二‐二六)には青野季吉・谷崎精二・広津和郎・宇野浩二・細田民樹・葛西善蔵らを輩出したが、昭和二年(一九二七)一二月休刊。第三次は昭和九年六月から同三四年八月まで断続的に刊行され、尾崎一雄井上友一郎・北条誠ら多くの作家を輩出している。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「早稲田文学」の意味・わかりやすい解説

早稲田文学
わせだぶんがく

文芸雑誌。東京専門学校(現早稲田大学)の「学校外教育」の場として創刊され、1997年(平成9)には第九次が発行されている。

[田中夏美]

第一次

1891~1898年(明治24~31)。月刊。編集者坪内雄蔵(ゆうぞう)(逍遙(しょうよう))。発行所、当初東京専門学校、49号より早稲田文学社。東京専門学校に前年創設の文学科の講義録的なものに、やがて「記実主義」の方針を打ち出して、当時の文学状況を伝える「時文評論」や、文学界の動向を概括した「彙報(いほう)」欄に特色をみせるようになった。森鴎外との間で戦わされた逍遙の「没理想論争」が掲載されている。さらに文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不倒(ふとう)(1858―1943)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ちゅうがい)、五十嵐力(ちから)らが誌面で活躍しはじめ、文芸誌としての色彩を強めた。ほかに高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまりょうせん)などが執筆。

[田中夏美]

第二次

1906~1927年(明治39~昭和2)。編集者島村抱月。早稲田文学社編集。発行所、金尾文淵堂、のち東京堂。新帰朝の島村抱月を擁して相馬御風(ぎょふう)らが活躍。おりからの自然主義文学運動の中心的な位置につける。誌面は「本欄」と「彙報」に分けられ、「本欄」には抱月、相馬御風、片上伸(かたかみのぶる)(号は天弦(てんげん))らの自然主義論、正宗白鳥、田山花袋(かたい)らの小説など、「彙報」欄は文学・教育・美術・宗教・演劇など広い分野にわたる情報を載せ、海外の新文学の紹介にも力を入れる総合的文芸誌として、日露戦争後の明治文壇に大きな比重を占めた。大正期に入り谷崎精二、広津和郎、宇野浩二、葛西善蔵、日夏耿之介(こうのすけ)らが輩出。編集は相馬御風、中村星湖を経て本間久雄が担当、早大系の作家を送り出したが、漸次文壇における指導性を失っていった。

[田中夏美]

第三次

1934~1949年(昭和9~24)。当初の編集発行人は井上英三(1902―1947)。早稲田文学社発行。谷崎精二が中心になり編集。昭和10年前後のいわゆる「文芸復興」期に復刊。丹羽(にわ)文雄、尾崎一雄、井伏鱒二(いぶせますじ)、外村繁(とのむらしげる)、伊藤整(せい)、梅崎春生(はるお)、坂口安吾など、執筆者は早大関係者に限らず広範囲に求め、また、戦前・戦中の時局迎合の風潮のなかでわずかに自由主義の面目を保った。

[田中夏美]

第四次

1949年(昭和24)。編集委員、八木義徳(よしのり)、石川利光(りこう)(1914―2001)ら。早稲田文学社編集。正宗白鳥、丹羽文雄石川達三らが執筆するが、4冊のみで終わる。

[田中夏美]

第五次

1951~1953年(昭和26~28)。編集発行人岩城順二郎。早稲田文学社編集。雪華社発行。谷崎精二が中心になり浅見淵(ふかし)、新庄嘉章(しんじょうよしあきら)、暉峻康隆(てるおかやすたか)(1908―2001)らの編集委員制をとる。

[田中夏美]

第六次

1959年(昭和34)。編集人岩本常雄(1918―1990)。丹羽文雄、石川達三、火野葦平(ひのあしへい)の責任編集。8冊で終わる。

[田中夏美]

第七次

1969~1975年(昭和44~50)。編集兼発行人新庄嘉章。早稲田文学会発行。講談社発売。当初、編集委員長立原正秋(まさあき)を中心に有馬頼義(よりちか)らが編集にあたるが、やがて編集委員による共同編集制をとる。後藤明生(めいせい)、高井有一三浦哲郎(てつお)、秋山駿(しゅん)(1930―2013)、立松和平らが執筆。第一次石油危機後のインフレの波を受けて休刊。

[田中夏美]

第八次

1976~1997年(昭和51~平成9)。早稲田文学会発行。発行人平岡篤頼(とくよし)(1929―2005)。はじめ編集委員制をとり、秋山駿、後藤明生、三浦哲郎ら、のち宮原昭夫(1932― )、立松和平、三田誠広(1948― )、村上春樹、中上健次、青野聰(そう)、鈴木貞美(1947― )らが編集委員を務めるが、その後編集委員制は廃止。当初B5判の週刊誌スタイルで発行。掲載作品に村上春樹『パン屋襲撃』(1981)、加藤典洋『アメリカの影』(1982)など。

[田中夏美]

第九次

1997年(平成9)~。月刊を隔月刊に変更。発行人西本武彦(1941― )、編集人江中直紀(1949― )。のち発行人吉田順一(1940― )、大橋一章(かつあき)(1942― )、編集人貝澤哉(はじめ)(1963― )など。編集室に三田誠広ら。2001年、文芸批評中心に誌面を刷新。

[田中夏美]

『浅見淵著『史伝早稲田文学』(1974・新潮社)』『『早稲田文学(第一次)総目録』(1979・第一書房)』『保昌正夫・栗坪良樹編『早稲田文学人物誌』(1981・青英社)』『早稲田大学図書館編・刊『早稲田と文学の一世紀――「早稲田文学」創刊100年記念図録』(1991)』『『新潮日本文学アルバム(57) 坪内逍遙』(1996・新潮社)』『鈴木佐代子著『立原正秋 風姿伝』(中公文庫)』『伊藤整著『回想の文学 日本文壇史(9) 日露戦後の新文学』(講談社文芸文庫)』

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百科事典マイペディア 「早稲田文学」の意味・わかりやすい解説

早稲田文学【わせだぶんがく】

文芸雑誌。第1次,1891年10月―1898年10月。第2次,1906年1月―1925年12月。以降,休刊と復刊を繰り返して第8次期へ至る。第1次は編集者坪内雄蔵(坪内逍遥)。全156冊。東京専門学校(現早稲田大学)発行。東京専門学校文学科機関誌として創刊。饗庭篁村《巣林子評釈》,大西祝(はじめ)《論理学》,島村抱月《審美的意識の性質を論ず》などを掲載。逍遥と森鴎外との間の〈没理想論争〉など,近代文学のひとつの方向を示す役割を果たした。第2次は編集者島村滝太郎(抱月)。金尾文淵堂,のち東京堂発行。自然主義文学運動の牙城となる。正宗白鳥《何処へ》,田山花袋《一兵卒》,抱月《文芸上の自然主義》などを掲載。以降,多くの作家,評論家を育て,〈早稲田派〉と呼ばれる伝統を築きあげており,日本近代文学の流れの一つを形成してきている。2008年4月第10次復刊。
→関連項目秋田雨雀梅崎春生葛西善蔵片上伸桐一葉児玉花外後藤宙外新潮相馬御風谷崎精二帝国文学中村星湖文章世界本間久雄三上於菟吉三田派三富朽葉吉田絃二郎

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改訂新版 世界大百科事典 「早稲田文学」の意味・わかりやすい解説

早稲田文学 (わせだぶんがく)

文芸雑誌。1891年10月,坪内逍遥の編集で創刊。前年新設された東京専門学校(早稲田大学の前身)文学科の機関誌的性格をもち,講義録風の内容でスタートした。逍遥と森鷗外とのあいだでかわされたいわゆる〈没理想論争〉などをはじめ,〈文学〉に対する理解の未分化な時代に,〈明治文学の嚮導者〉として果たした役割は大きい。98年10月で第1次を終わるが,第2次は島村抱月を中心として1906年1月に始まり,自然主義文学運動の牙城として,その理論形成に貢献した。〈記実〉を旨とする第1次からの基本姿勢は,〈彙報〉を中心に引きつがれ,文学史料としての価値を高からしめている。27年12月,第2次を閉じ,34年から49年まで第3次が続いたあとは,敗戦後の経済事情などもあって数次の断続をくりかえしたが,なお今日に及んでその歴史を刻んでいる。それは,ただちに日本近代文学の歴史であり,時代時代を支えた作家・評論家の多くを生み育てた功績は,他に類を見ない。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「早稲田文学」の意味・わかりやすい解説

早稲田文学
わせだぶんがく

文芸雑誌。 1891年 10月に発行された第1次から現在まで,8次にわたり断続して発行されている。第1次 (1891.10.~98.10.全 156冊) は坪内逍遙が主宰,最初は講義録風なものであったが,次第に逍遙,島村抱月,綱島梁川らの論文がふえていった。第2次 (1906.1.~27.12.全 263冊) は第1次を発展させたもので,抱月,相馬御風らが論陣を張り,正宗白鳥,近松秋江,田山花袋,小川未明らが小説を発表,自然主義文学運動の拠点となった。第3次 (34.6.~49.3.全 143冊) は谷崎精二が主宰し,逸見 (へんみ) 広,尾崎一雄らが編集にあたり,第2次世界大戦中も自由主義の伝統を守り続けた。その後第4次 (49.5.~49.9.全4冊) ,第5次 (51.11.~53.11.全 20冊) ,第6次 (59.2.~59.8.全8冊) ,第7次 (69.2.~75.1.全 72冊) を経て,第8次 (76.6.~ ) は平岡篤頼,秋山駿らの編集で発行。現在編集委員には荒川洋治,三田誠広らがいる。

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世界大百科事典(旧版)内の早稲田文学の言及

【坪内逍遥】より

…ついでその理論の応用編ともいうべき《当世書生気質(かたぎ)》(1885‐86)をはじめとして,《新磨(しんみがき) 妹と背かゞみ》《内地雑居 未来の夢》などの作品を公にするが,二葉亭四迷との邂逅(かいこう)をきっかけに,自己の創作方法に疑問をもつようになり,89年の《細君》を最後に小説の筆を折った。90年,東京専門学校(早大の前身)に文学科を創設,翌年,その機関誌《早稲田文学》を創刊して後進の育成につとめるが,《しがらみ草紙》による森鷗外との間に交わされた〈没理想論争〉は,近代最初の本格的な文学論争として知られている。その後,伝統演劇の改良に新たな活動の舞台を求め,《桐一葉》(1894‐95),《牧の方》(1896‐97),《沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじようのらくげつ)》(1897)などの新史劇を発表する一方,高山樗牛と史劇論をたたかわせたりした。…

【早稲田大学】より

…また,政治に限らず,日本の経済,社会,学術,文化の各分野の発展にも大きな足跡を刻んでいる。開校翌年から教壇に立った坪内逍遥の文芸活動は,1890年文学科を設置して文学教育のとりでを築き,翌91年には雑誌《早稲田文学》を創刊して早稲田文学の土壌を育成するなど多彩であった。このなかから文壇をリードする優れた作家,文芸家が多数輩出した。…

※「早稲田文学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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