文芸雑誌。東京専門学校(現早稲田大学)の「学校外教育」の場として創刊され、1997年(平成9)には第九次が発行されている。
[田中夏美]
1891~1898年(明治24~31)。月刊。編集者坪内雄蔵(ゆうぞう)(逍遙(しょうよう))。発行所、当初東京専門学校、49号より早稲田文学社。東京専門学校に前年創設の文学科の講義録的なものに、やがて「記実主義」の方針を打ち出して、当時の文学状況を伝える「時文評論」や、文学界の動向を概括した「彙報(いほう)」欄に特色をみせるようになった。森鴎外との間で戦わされた逍遙の「没理想論争」が掲載されている。さらに文学科卒業生の金子筑水(ちくすい)、水谷不倒(ふとう)(1858―1943)、島村抱月(ほうげつ)、後藤宙外(ちゅうがい)、五十嵐力(ちから)らが誌面で活躍しはじめ、文芸誌としての色彩を強めた。ほかに高山樗牛(ちょぎゅう)、綱島梁川(つなじまりょうせん)などが執筆。
[田中夏美]
1906~1927年(明治39~昭和2)。編集者島村抱月。早稲田文学社編集。発行所、金尾文淵堂、のち東京堂。新帰朝の島村抱月を擁して相馬御風(ぎょふう)らが活躍。おりからの自然主義文学運動の中心的な位置につける。誌面は「本欄」と「彙報」に分けられ、「本欄」には抱月、相馬御風、片上伸(かたかみのぶる)(号は天弦(てんげん))らの自然主義論、正宗白鳥、田山花袋(かたい)らの小説など、「彙報」欄は文学・教育・美術・宗教・演劇など広い分野にわたる情報を載せ、海外の新文学の紹介にも力を入れる総合的文芸誌として、日露戦争後の明治文壇に大きな比重を占めた。大正期に入り谷崎精二、広津和郎、宇野浩二、葛西善蔵、日夏耿之介(こうのすけ)らが輩出。編集は相馬御風、中村星湖を経て本間久雄が担当、早大系の作家を送り出したが、漸次文壇における指導性を失っていった。
[田中夏美]
1934~1949年(昭和9~24)。当初の編集発行人は井上英三(1902―1947)。早稲田文学社発行。谷崎精二が中心になり編集。昭和10年前後のいわゆる「文芸復興」期に復刊。丹羽(にわ)文雄、尾崎一雄、井伏鱒二(いぶせますじ)、外村繁(とのむらしげる)、伊藤整(せい)、梅崎春生(はるお)、坂口安吾など、執筆者は早大関係者に限らず広範囲に求め、また、戦前・戦中の時局迎合の風潮のなかでわずかに自由主義の面目を保った。
[田中夏美]
1951~1953年(昭和26~28)。編集発行人岩城順二郎。早稲田文学社編集。雪華社発行。谷崎精二が中心になり浅見淵(ふかし)、新庄嘉章(しんじょうよしあきら)、暉峻康隆(てるおかやすたか)(1908―2001)らの編集委員制をとる。
[田中夏美]
1959年(昭和34)。編集人岩本常雄(1918―1990)。丹羽文雄、石川達三、火野葦平(ひのあしへい)の責任編集。8冊で終わる。
[田中夏美]
1969~1975年(昭和44~50)。編集兼発行人新庄嘉章。早稲田文学会発行。講談社発売。当初、編集委員長立原正秋(まさあき)を中心に有馬頼義(よりちか)らが編集にあたるが、やがて編集委員による共同編集制をとる。後藤明生(めいせい)、高井有一、三浦哲郎(てつお)、秋山駿(しゅん)(1930―2013)、立松和平らが執筆。第一次石油危機後のインフレの波を受けて休刊。
[田中夏美]
1976~1997年(昭和51~平成9)。早稲田文学会発行。発行人平岡篤頼(とくよし)(1929―2005)。はじめ編集委員制をとり、秋山駿、後藤明生、三浦哲郎ら、のち宮原昭夫(1932― )、立松和平、三田誠広(1948― )、村上春樹、中上健次、青野聰(そう)、鈴木貞美(1947― )らが編集委員を務めるが、その後編集委員制は廃止。当初B5判の週刊誌スタイルで発行。掲載作品に村上春樹『パン屋襲撃』(1981)、加藤典洋『アメリカの影』(1982)など。
[田中夏美]
1997年(平成9)~。月刊を隔月刊に変更。発行人西本武彦(1941― )、編集人江中直紀(1949― )。のち発行人吉田順一(1940― )、大橋一章(かつあき)(1942― )、編集人貝澤哉(はじめ)(1963― )など。編集室に三田誠広ら。2001年、文芸批評中心に誌面を刷新。
[田中夏美]
『浅見淵著『史伝早稲田文学』(1974・新潮社)』▽『『早稲田文学(第一次)総目録』(1979・第一書房)』▽『保昌正夫・栗坪良樹編『早稲田文学人物誌』(1981・青英社)』▽『早稲田大学図書館編・刊『早稲田と文学の一世紀――「早稲田文学」創刊100年記念図録』(1991)』▽『『新潮日本文学アルバム(57) 坪内逍遙』(1996・新潮社)』▽『鈴木佐代子著『立原正秋 風姿伝』(中公文庫)』▽『伊藤整著『回想の文学 日本文壇史(9) 日露戦後の新文学』(講談社文芸文庫)』
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文芸雑誌。1891年10月,坪内逍遥の編集で創刊。前年新設された東京専門学校(早稲田大学の前身)文学科の機関誌的性格をもち,講義録風の内容でスタートした。逍遥と森鷗外とのあいだでかわされたいわゆる〈没理想論争〉などをはじめ,〈文学〉に対する理解の未分化な時代に,〈明治文学の嚮導者〉として果たした役割は大きい。98年10月で第1次を終わるが,第2次は島村抱月を中心として1906年1月に始まり,自然主義文学運動の牙城として,その理論形成に貢献した。〈記実〉を旨とする第1次からの基本姿勢は,〈彙報〉を中心に引きつがれ,文学史料としての価値を高からしめている。27年12月,第2次を閉じ,34年から49年まで第3次が続いたあとは,敗戦後の経済事情などもあって数次の断続をくりかえしたが,なお今日に及んでその歴史を刻んでいる。それは,ただちに日本近代文学の歴史であり,時代時代を支えた作家・評論家の多くを生み育てた功績は,他に類を見ない。
執筆者:榎本 隆司
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…ついでその理論の応用編ともいうべき《当世書生気質(かたぎ)》(1885‐86)をはじめとして,《新磨(しんみがき) 妹と背かゞみ》《内地雑居 未来の夢》などの作品を公にするが,二葉亭四迷との邂逅(かいこう)をきっかけに,自己の創作方法に疑問をもつようになり,89年の《細君》を最後に小説の筆を折った。90年,東京専門学校(早大の前身)に文学科を創設,翌年,その機関誌《早稲田文学》を創刊して後進の育成につとめるが,《しがらみ草紙》による森鷗外との間に交わされた〈没理想論争〉は,近代最初の本格的な文学論争として知られている。その後,伝統演劇の改良に新たな活動の舞台を求め,《桐一葉》(1894‐95),《牧の方》(1896‐97),《沓手鳥孤城落月(ほととぎすこじようのらくげつ)》(1897)などの新史劇を発表する一方,高山樗牛と史劇論をたたかわせたりした。…
…また,政治に限らず,日本の経済,社会,学術,文化の各分野の発展にも大きな足跡を刻んでいる。開校翌年から教壇に立った坪内逍遥の文芸活動は,1890年文学科を設置して文学教育のとりでを築き,翌91年には雑誌《早稲田文学》を創刊して早稲田文学の土壌を育成するなど多彩であった。このなかから文壇をリードする優れた作家,文芸家が多数輩出した。…
※「早稲田文学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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