明治の哲学者、思想家。岡山藩士の子として生まれ、操山(そうざん)と号す。同志社、帝国大学(現、東京大学)に学び、卒業後は1891年(明治24)から1898年まで東京専門学校(現、早稲田(わせだ)大学)で哲学、心理学、論理学、倫理学、美学などを講じた。またそのかたわら組合教会系の『六合(りくごう)雑誌』の編集にあたり、思想、宗教、芸術、教育、社会と広範な分野に旺盛(おうせい)な評論を展開し、明治20年代の精神革命を担う一人であった。1898年ドイツに留学したが、病を得て翌1899年帰国。新設の京都帝国大学文科大学長に予定されながら、病癒(い)えず37歳で夭折(ようせつ)した。講壇哲学者としては、認識批判を媒介した学としての哲学の体系化と論理的厳密性を目ざした。その試みは彼の早世により未完成に終わったが、カントの批判的理想主義の哲学の理解において同時代をぬきんでる存在であり、同時にAufklärungに「啓蒙(けいもう)主義」という訳語をあてるなど、真の啓蒙思想家でもあった。
[田代和久 2016年8月19日]
『『大西博士全集』全7巻(1903~1904・警醒社/新装版・2001・日本図書センター)』▽『船山信一著『日本の観念論者』(1956・英宝社)』▽『渡辺和靖著『明治思想史――儒教的伝統と近代認識論』(1978/増補版・1985・ぺりかん社)』
明治中期の哲学者。号は操山。文学博士。岡山藩士木全(きまた)正修の三男。母方の叔父大西定道の家を継ぐ。同志社の普通科,神学科を経て,帝国大学文科大学哲学科卒業後,大学院に進み倫理学を専攻。この間〈良心起原論〉を執筆した。1891年東京専門学校(現,早大)講師となり,98年まで哲学,心理学,論理学,倫理学,美学などを担当し,坪内逍遥とともに早大文科の基礎を築いた。《六合(りくごう)雑誌》を編集し,評論界でも鋭筆を発揮し,96年には姉崎正治らと〈丁酉(ていゆう)倫理会〉を組織した。98年ドイツに留学し,その間京都帝大文科大学学長就任が内定していたが,病気のため99年帰国し,翌年没した。井上哲次郎らの国家主義哲学派に対立し,キリスト教を擁護し,強い批判的精神を貫き通し,市民哲学者として,《論理学》《西洋哲学史》《倫理学》などを著した。また,文芸批評の意義を説いた《批評論》(1888),キリスト教的な社会主義を唱えた《社会主義の必要》(1896)などの著もある。
執筆者:佐藤 能丸
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
ドンド焼き,サイト焼き,ホッケンギョウなどともいう。正月に行われる火祭の行事で,道祖神の祭りとしている土地が多い。一般に小正月を中心に 14日夜ないし 15日朝に行われている。日本では正月は盆と同様魂...
1/16 デジタル大辞泉プラスを更新
1/16 デジタル大辞泉を更新
12/10 小学館の図鑑NEO[新版]魚を追加
10/17 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典を更新
8/22 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新