綿内村
わたうちむら
[現在地名]長野市若穂綿内
現若穂の北部、北東は妙徳山支脈と耕地で井上村・福島村(現須坂市)と境。南は妙徳山・太郎山・葛巻山の稜線と耕地で保科村・小出村と境。西は千曲川・保科川で限られる。中央部に葛巻山・城ノ峰の支脈が突出。山脚部は水田地帯、東南部は山地、北・西は千曲川沖積地である。妙徳山西麓山新田に南北に通じる馬背峠の古道があり、保科村を八町村(現須坂市八町)と結ぶ。千曲川右岸平地を南北に谷筋道(のちの谷街道)が通じ、南は古屋組で分岐する保科道、上町組で分岐し大豆島ノ渡(現牛島橋・落合橋)で善光寺道、北は町組尻で分岐、右は谷筋道で須坂へ、左は福島宿へ通じる。両分岐点の間約六〇〇メートルの直路沿いに古屋・上町・町(下町)・浦町のひとかたまりの街村を形成する。
弘治二年(一五五六)六月、武田晴信が井上左衛門尉に宛てた「綿内領之内、隠居免三百五拾貫文之所進置候」とある状にみえるのが初見(綿内文書)。
中世井上氏支配下となっていた。応永七年(一四〇〇)九月の信濃国守護小笠原長秀襲撃に際して、「大塔物語」は井上氏陣中に井上左馬助光頼ほか「舎弟遠江守・万年・小柳(中略)其勢五百余騎、千隈河々鰭取陣」と記す。井上氏発展とともに東部に小柳郷、西部に曰里郷が成立した。諏訪御符礼之古書の宝徳四年(一四五二)に、「直里、井上出羽守政満、御符之礼三貫三百文、御教書三貫三百、代官吉田能登守高秀」。享徳三年(一四五四)に、「小柳、五月会、御符之礼三貫三百文、使一貫文、稲田道椿」、寛正三年(一四六二)五月会に、「加頭、長池、井上冨長為信」、同五年花会に、「御堂、狩田、井上伊与守政家、代官稲田筑前守光重」。文明六年(一四七四)五月会に、「加頭、狩田、井上知行、代官堀内源次郎衛門家貞」、同七年花会明年御頭足に、「前宮、南高田、岩崎左馬助康満」と、土豪等が発展、戦国時代末井上氏が滅亡するまで続いたと思われる。慶長五年(一六〇〇)森忠政松代入城以降は松代領、元和二年(一六一六)須坂堀直重領となり廃藩に至った。
慶長七年の森忠政の検地で二千九〇一石余を記す(「川中島四郡検地打立之帳」小柳文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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