脳死・臓器移植問題(読み)のうしぞうきいしょくもんだい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「脳死・臓器移植問題」の意味・わかりやすい解説

脳死・臓器移植問題
のうしぞうきいしょくもんだい

脳死とは―移植との関係

脳死とは、外傷、脳血管障害や心拍・呼吸の停止などにより脳の血流が阻害され、広範に神経細胞が死滅して、回復不能の脳機能の喪失が起こることである。深昏睡(しんこんすい)、瞳孔(どうこう)散大、脳波平坦(へいたん)、自発呼吸停止、および対光反射や角膜反射などの脳幹反射の喪失を、6時間の間隔を置いて2回確認することで判定する。臓器や組織の移植手術は、腎臓(じんぞう)、角膜や肝臓の一部などは、生きている人や心臓死した人からもできるが、心臓や、肝臓全体は、脳死状態で機械により呼吸と心拍が保たれている人からしか提供されえない。

[橳島次郎]

問題の経緯

脳死と臓器移植は、当初から一体の問題として世に現れた。世界最初の脳死判定基準である1968年のハーバード大学の基準は、脳死を人の死とする必要が起こった理由を二つあげている。一つは、回復不能の脳損傷を受けた患者を機械で生かし続けるのは家族や病院にとって重い負担であること。もう一つは、前の年に世界第一例が行われた心臓移植をその後も行うためには、旧来の心臓死の概念を変える必要があることである。

 日本でこの問題が社会をにぎわせることになったきっかけの一つは、腎臓移植の際、実はすでに現場で脳死による死の認定が進められていたことが、日本移植学会における発表から明らかになったことだった(「死の判定 新たな一石 脳死状態で腎移植」朝日新聞、1982年(昭和57)9月11日付、朝刊第1面見出し)。一般の人は、自分たちが知らない間の脳死・移植の進展に驚いた。「脳死の時点でなにもかもかたづけられる」と受け取られたり、「生体実験、殺人行為」だという激しい反発もみられた。こうしたなかで、1983年9月、厚生省(現厚生労働省)は脳死判定基準の見直しのために「脳死に関する研究班」(厚生省研究班)を設けた。また同年10月には、「生命倫理問題・国会議員懇談会」が超党派の国会議員で結成され、脳死を人の死とする立法を目ざして活動し始めた。

 厚生省研究班は、のちに、主任研究者である竹内一夫(1923―2021。当時杏林(きょうりん)大学長)の名をとって「竹内基準」とよばれるようになる脳死判定基準を定めた報告書を、1985年12月に出した。これは、脳死者からの臓器移植を国が認知したしるしと受け取られ、基準発表後、ただちに心臓や肝臓の移植が始められるという雰囲気がマスコミを通じて社会に広がった。しかし現実には心臓移植に踏み切る医療施設は出てこなかった。竹内基準の策定と同時期に雑誌連載された立花隆の労作『脳死』(出版は1986年)は、判定基準の内容だけでなく厚生省研究班の作業手続に対しても鋭い批判を展開し、この問題を専門家まかせにしないできちんと論議すべきことを社会に知らしめた。しかし、一方で立花の論は、その後の脳死論議の内容を個々の判定基準の細かい技術的妥当性に集中させる方向に導いてしまい、あとで述べる問題の広範な広がりを覆い隠してしまったことも事実である。

[橳島次郎]

消えない医療不信

この時期はまた東京大学PRC(患者の権利検討会)企画委員会(本田勝紀(かつのり)(1940― )代表)がシンポジウムや脳死者からの臓器摘出に対する刑事告発を通じて、社会的論議を喚起する運動を本格化させた時期でもあった。PRCの告発は、とくに世論の方向の定まらない初動期に、移植医にかなりのプレッシャーを与え、既成事実化による脳死・移植のなし崩し的容認を阻んだ一つの要因だったことは間違いない。新しい治療技術の出始めに世論が不安、不信を示すのは、珍しいことではない。問題はこの初発時の「医療不信」を取り除くために医学界が真剣な努力をしたかどうかである。現実は残念ながら、移植医を中心に、正しい医学知識が普及すればそうした素人(しろうと)の「誤解」は自然になくなるだろうという、自らが高みに立った時代遅れの大衆啓蒙(けいもう)路線がとられただけであった。真の不信解消のために、人々が危惧(きぐ)する行き過ぎや過ちが起こらないようにするには具体的にどうすればいいかを、医学界が社会に提案していくといった論議もアクションも行われなかった。

 そのために、日本医師会生命倫理懇談会の「脳死および臓器移植についての最終報告」(1988年1月)、政府の「臨時脳死および臓器移植調査会」(脳死臨調)の最終報告書(1992年1月)と、脳死移植を認める意見が公にされるたびに、マスコミでは「ゴー・サイン」が出たと報道され移植推進のムードが社会をにぎわせるのに、世論は脳死の賛否をめぐって収まらず(「社会的合意がまだ得られていない」といういい方がよくされた)、脳死移植実施に踏み切る施設は依然として出てこないというパターンが繰り返された。

[橳島次郎]

生命の始まりと終わりをめぐる論争

こうした動きに対して、日本だけが脳死の受け入れに抵抗を示して論議がもめている、欧米ではもはやなにも問題にされていないといって、日本の後進性を嘆くむきがあった。しかしそれは間違っている。欧米では、人の生命の終わりよりも、始まりはどこかという問題に社会的論議が向けられている。アメリカ合衆国では妊娠中絶の是非が国論を二分して、まったく動きのとれない状況にある。この対立の激しさは、中絶がほとんど問題にされない日本では想像が及ばないほどである。ヨーロッパでも、実験や診断・治療のために人の胚(はい)の利用をどこまで認めるべきかについての論議がなかなか収まらず、各国がそれぞれに苦労している。

 とはいうものの、生命の終わりの問題でも、医師が積極的に安楽死に関与することを認めるかどうかが、いくつかの国で争点にされてきた。アメリカではワシントン州住民投票で僅差(きんさ)で安楽死合法化が否決された。それに対してオレゴン州では同様の法律が成立し、またオランダでも現場で医師の積極的安楽死処置が広まっていることが調査で明らかにされ、条件付きでそうした行為を訴追しないことを認める法律が成立した(1993)。同様の問題に直面しているイギリスの医師は、オランダの方向を批判している。しかし2001年オランダは安楽死を合法化する法律を成立させた。フランスでは、積極的安楽死の容認は医の倫理の伝統を損なうものとして、否定する論調が大勢である。これらの論議は、日本でのものとそう変わらない。たとえば、日本医師会生命倫理懇談会の「末期医療に臨む医師のあり方」についての報告(1992年4月)は、消極的安楽死をありうる選択肢として認めている。

 先進諸国は、現代医療の発達がもたらす社会的・倫理的問題にどう対処するかという共通の課題に直面している。そのなかで、いままでのところ、日本では脳死に関心と議論が集中し、欧米ではおもに生殖技術に集中しているという違いがあるだけなのである。とくに北米では、中絶や生殖技術にどういう意見をもっているかが、政府高官や国の諮問委員会のメンバーになれるかなれないかを左右するほどになっている。それに比べれば、日本での脳死・移植問題のもめようは、臓器移植を待つ一部の患者や医療担当者にとっては切実な問題であっても、社会全体からみればマイナーな事柄である。日本だけがおかしい、遅れているというのは、真の問題に直面せずに逃げようとする態度でしかない。

[橳島次郎]

「脳死」問題を越えて

では、真の問題とはなんだろうか。それは、脳死判定基準の内容の妥当性など脳死自体の問題点を越えた、日本の医療と社会全般が抱える問題である。それらは、次の3点にまとめることができると思う。

[橳島次郎]

末期医療と医療の現代化への対応

第一は、末期医療のあり方、末期の人の扱いの問題である。あらゆる努力をしたにもかかわらず、不幸にも脳死状態に陥った人をどう扱うか。死の定義がどう変わろうと、瀕死(ひんし)の患者と家族をだれがどうケアするかが、医療現場でのいちばんの問題なのである。いまの日本の医療現場では、末期の苦痛のコントロール法、心理的・精神的なケア、最後のときをどこでどう過ごすかについての方針、在宅ケアなど、ターミナル・ケア(終末介護)とよばれる死の看取りをめぐる多様なニーズに、ケース・バイ・ケースに対応できる体制ができていない。看護師やソーシャルワーカーなどのコ・メディカル・スタッフ(医師以外の医療従事者)が絶望的に不足していること、医療と地域福祉との接続・連携ができていないことなどが、満足な末期医療の体制づくりができない原因である。

 こうした、病院における死に際一般のケアの体制の不備は、人々の間に大きな不安と不満を広げている。だから、脳死になったらどう扱われるのかという問題でも、人々は不安を拭(ぬぐ)えないのである。これは当然の懸念である。末期医療の体制の不備は、大きくみれば、日本の医療の現代化の遅れによるものである。それは、日本の医療全体が直面している課題なのである。慢性疾患中心になった現代の医療現場では、医療内容の評価は、完治はしない病気や障害を抱えながら、いかに質の高い日常生活を送れるように患者・家族を助けられるかという点にかかってくる。そこでは医師のできることは限られている。日常業務の比重は、看護やリハビリ、情報伝達や社会・経済的問題への対処および福祉との連携を果たすソーシャルワークなどが中心になる。

 このような医療の内容の変化に応じて、マンパワーの配置や財源配分の比重を変えていかなければいけない。過剰な医師数を抑えて、不足している看護師やほかのコ・メディカル・スタッフを増やしても、病院経営が成り立ち、社会保険に過重な負担をかけないようにしなければならない。そのためには、医師の行為、それも薬剤や検査機械の使用に偏ったいまの診療報酬点数の体系を、根本的に変えなければならない。これは医療の基礎部分の問題だが、そうした基礎体力が十分になければ、末期医療の現場に脳死を持ち込むことも、臓器移植などの先端医療を行うことも、本来無理なのである。

[橳島次郎]

意思決定・政策立案の体制の不備

第二に、日本における意思決定体制の不備、政策形成能力の欠如という問題がある。これは個々の現場から、医学界、国政レベルにまでいえる。専門家と一般人との間で、必要な情報を開示し共有する努力がなされず、自由な選択の幅が許されにくいような現場では、複雑な現代医療の問題に十分対応できない。ましてや、生と死のあり方に深く介入する先端医療を、患者・家族が安らいで受容することなどとてもできない。こうした意思疎通のなさは、医師同士や、異なる医療従事職同士の間にもある。現場でも学会レベルでも、日本の医師は、専門的相互チェック(ピア・レビューpeer review)を制度化する努力をせず、専門職集団全体として自らの行っている医療の品質管理をできないでいる。

 同じように、専門を異にする医学会の間での論議や調整も欠けている。日本医師会の脳死容認答申の出たあと、1988年(昭和63)6月には、日本精神神経学会が、未解決の問題を具体的に列挙して、現状では脳死判定と臓器移植の実施は認められないとする見解を出した。しかし、日本脳神経外科学会や日本移植学会など関連他学会はこの問題提起を黙殺し続けた。また、1991年(平成3)7月には、日本心臓病学会が、日本の現状では、欧米なみの心臓移植の実施資格基準を満たすところは一つもないと批判し、まず一つだけ十分な体制を整えた施設をつくって、慎重に進めるべきだとする提言を出した。だがこれに対して、13もの施設を移植実施施設として認めた心臓移植研究会は、ただ反発するだけで耳を貸さない構えだった。日本での心臓移植は、1968年(昭和43)の和田心臓移植以来、行われていなかったが、専門学会の間でこうした重大な認識の違いが放置されたままでは、とてもその再開などできるはずがなかった。

 脳死臨調の最終答申が出た後、1992年5月に厚生省(現厚生労働省)の指導でようやく「移植関係学会合同委員会」がつくられた。提供者を出す側である日本救急医学会、日本脳神経外科学会と、日本移植学会、日本胸部外科学会、日本循環器学会、日本内科学会、日本外科学会など九つの関連専門学会の間で、移植を受ける患者の選定基準、インフォームド・コンセント(十分な説明と同意)の様式、施設の特定、チェック機構の設置など、脳死移植実施に伴う懸案課題に対する取り組みが進められた。だが本来なら、こうした関連医学会どうしの連絡と調整は、移植の実施が目ざされたそのときから、医学界自らが率先して行うべきものであった。それをしなかったために、問題が医療の場を超えて社会問題化した。そのためによけい手間暇がかかるようになってしまったのは、しかたのないことだ。社会の批判にさらされるようになったおかげで、遅れこそすれ、ともかく必要な調整と品質管理の動きは生まれた。旧態依然たる他の医療分野に比べれば、大きな一歩前進である。臓器移植に始まったこの動きが、医療全体に広がるようにしなければいけない。

 このように医師同士の間ですら、きちんとした対応がなかなか行われないようでは、医学界が全体として社会から信頼されないのも無理はない。取り入れるべき先端医療を社会に提唱していくうえで、いいところも悪いところもすべて出し、問題点を明らかにしてその解決策を示すという姿勢が日本の医学界にはなかった。それが、日本で脳死・移植問題がここまでこじれた最大の原因である。これに対してイギリスやドイツでは、医学界が社会の付託を受けて、自らの責任において判定基準を統一し、その適正な実施を保証することで脳死概念を社会に認知させた。両国とも脳死を人の死とする法律はつくらないですませている。

 こうした執行管理能力は、医学界だけでなく、日本の国家運営全体にも欠けている。先端医療について専門情報を集約して問題を明らかにし、政策課題を絞り込んでいく機能を果たす常設の場が、日本の政府にはなかった。だから脳死問題でも「臨時」調査会をつくるしかなかったが、専門知識に乏しい「識者」の懇談でしかなかった脳死臨調は、必要な権威を勝ち得ることができなかった。脳死・移植の場合、ことは死の判定と人の体の扱いだから、異なる医療専門職の間だけでなく、行政府内部でも厚生労働省のほかに法務・検察、警察、総務・消防(救急)などの間で、さまざまな調整が必要になる。本来脳死臨調は、そうした多くの省庁にまたがる調整を果たす場であるべきだったが、タテ割行政の弊害から、実質的な作業は皆無なままで終わった。

 その欠陥が世間の目にいちばん明らかになったのが、不自然死例の扱いをめぐる移植医側と警察との確執である。事前の調整が欠けていたため、現場でどう対応していいか判断に苦しむ警察は、大筋で脳死移植を容認した脳死臨調答申後も、傷害や事故による死体に義務づけられている検死実施の必要を盾に、脳死段階での臓器摘出を原則的に認めない方針をとり続けた。検死は、従来もちろん心臓死後に行われてきたからである。脳死臨調審議中の1990年9月大阪でのケースや、1993年3月の三重県でのケースなど、外傷による脳死者が臓器提供の候補にされ移植医が動き出しても、警察が「制止」して実施が「断念」される例が相次いだ。この検死に関する問題が、脳死移植に対する最大の壁の一つだった。

 臓器提供者になりうる脳死者の多くは、交通事故など「不自然死」にあたる原因によって発生する。不自然死は検察、警察、地方自治体の監察医などによる検死の対象になる。検死は不自然死の原因と種別(病死か事故死か、自殺か他殺か)を明らかにするもので、社会の秩序の大もとにかかわる重要な公務である。それは犯罪のかかわりの有無だけでなく、加害責任の程度や労災・保険請求などの認定の基礎になる。突然不慮の死を遂げた人や、それにかかわった人の人権の保護のために、移植よりもなによりもいちばんに優先してきちんと行われるべきものである。

 だから警察が脳死段階での性急な臓器の取り出しに待ったをかけるのは、職務上当然のことである。検死優先の枠のなかで、どんな場合にどのようにすれば臓器の摘出が許されるかについて、医療側と法務・検察、警察がルールを取り決めなければ、現場は動けない。「社会的合意」とは、そうした責任主体の間での政策(方針と実施マニュアル)づくりの積み上げにほかならない。

 だが日本では、行政との間はおろか、その前提となる医療側の間での調整すら行われていない。検死を専門とする日本法医学会は、先の移植関係学会合同委員会に加えられていなかった。欧米諸国では、生命科学技術の発達に伴う社会的・倫理的問題全般を扱う常設の国家委員会や、政府や議会の特別委員会が、調査報告書を積み上げて問題点を列挙し、公論の成り行きをみつつ政策を絞り込んでいくという政治手法が確立しつつある。日本では実体がないと批判される「社会的合意」の具体的な姿がそこにある。そうした合理的な政策立案体制のない日本では、重要な問題の決定において、ムードに左右されやすく責任主体の存在しない「世論調査」の数字に過剰によりかかることになってしまう。だから多様な価値観や、現場のさまざまな立場の利害の調整がきちんとなされず(先にあげた検死の問題はその最たる例だ)、「いったん脳死を認めればそれに逆らえない風潮が生まれて、どんどん臓器を取られる」という一般の人々の不信に対応できないのである。

[橳島次郎]

臓器移植の評価

第三に、脳死者の臓器を利用する移植に関して、医学界でもマスコミでも、国民医療全体のなかにそれをどう位置づけるかの論議がまったく欠けていた。脳死移植は、不慮の死を遂げた第三者を巻き込む変則的な医療技術であるだけにいっそう、そうした先行きの見通しのなさは問題である。だから、脳死・臓器移植の知識は普及しても、不安感や不信感は収まらなかったのだ。そこに、日本が、医師会や脳死臨調からマスコミのいう「ゴー・サイン」答申がいくら出てもどこも移植を実施できないという手詰まり状況からなかなか抜け出せなかった、もう一つの大きな原因があった。脳死臨調の報告書もそれは認めていて、構造的な医療不信の解消を医学界に求めている。

 イギリスでも、1974年から1978年まで、心臓移植がストップされ、いつ再開できるのかという時期があった。日本と違うのは、イギリスではその時期以降、政府が医学者と協力して、臓器移植を国民医療のなかに位置づける作業をきちんと行おうとしたことである。移植を再開してよい施設の基準をつくったり(1977・79年)、心臓移植を技術評価(テクノロジー・アセスメント)する報告書をつくる(1985年)など、移植外科以外の医療界と社会の合意を取り付ける根拠となる客観的な材料を、国が第三者の研究者グループに調査を委託するなどして集めたのである。そこでの主たるポイントは、心臓移植の実施が、医師、看護師、検査室、ソーシャルワーカーなどの病院のスタッフにどれくらいの負担になるかを実地に計測し、移植を行っても通常の医療がレベルダウンしないですむかどうかをアセスメントすることに置かれている。また技術評価の目安として、費用効果分析(使われる費用に見合った治療効果がもたらされるかどうかを経済学の手法で分析する)が行われている。

 さらにイギリスでは、医療費抑制を主眼とした国民医療制度の改革論議のなかでも、臓器移植の国民医療のなかに占めるべき位置が厳しく問い直された。たとえば各地域で医療保険給付対象の決定権をもつ担当官が、1991年2月に国営放送の質問に答えて、12の代表的な現代医療に優先順位をつけている。それによると、心臓、肝臓の移植は、末期の肺癌(がん)と並んで最下位の三つに位置づけられている。アメリカでも、政府が心臓移植に公的保険からの支出をすべきかどうかを決めるのに際して、全国調査に基づく技術評価が行われた(1985年に報告書公表)。そこでも費用効果分析が大きな役割を果たした。1991年には、心臓だけでなく全臓器の移植を費用効果分析する調査報告書も出された。

 先進諸国では、総医療費の抑制と効率化、配分の公正化が、医療政策の共通の課題になって久しい。そのなかで高額な先端医療は厳しく見直されてきた。他の医療との兼ね合いという広い視野での技術評価が、先端医療の社会的認知には欠かせなくなっているのである。しかし脳死臨調も国会も厚生省も、この作業を怠った。そのしわ寄せは、「臓器移植法」の成否とは別に、医療機関と患者、そしてその家族に重くのしかかってくるだろう。

 移植医やマスコミは、臓器移植は「確立した医療である」とよくいう。しかしそれはあくまで手術の手技や検査値の管理などの、技術的なレベルのことでしかない。医療を受ける側にとって確立した医療とは、技術的にはもちろん、社会的、経済的にも、必要なときどこでもだれでもが安んじて受けられる医療のことである。しかし臓器移植は、免疫抑制という技術的難題があるうえに、国内の腎以外は保険はきかず、限られた実施施設のそばに移り住んで、いつ出るかわからない提供者を待たねばならないという点で、とても確立した医療とはいえない。まして日本では、交通事故死者は人口当りアメリカの半分で、銃器による頭部外傷も皆無に近い。つまりアメリカなみの脳死提供者が出る見込みはまったくない。そのアメリカですら深刻な提供者不足に悩まされているのだ。にもかかわらず「臓器移植は確立した医療だ」という移植医の感覚は、医療を受ける一般人の感覚とはかけ離れている。このギャップが埋められなければ、臓器移植のインフォームド・コンセントなど、決してありえない。「説明のうえでの同意」のその「説明」が、はじめから医療を受ける側にとっては不十分なのだから。

[橳島次郎]

移植法制定と脳死移植実現までの経緯

移植法制定

1992年(平成4)12月、国会に超党派の「脳死及び臓器移植に関する各党協議会」が発足し、1993年6月の衆院解散・総選挙による中断を挟んで、1994年4月に「臓器の移植に関する法律案」を提出するところまでこぎつけた。脳死を一律に人の死と認め、脳死者からの臓器提供を本人の意思だけでなく家族の同意でも可能にする内容であった。だがこの法案は審議が進まないまま、1996年9月の衆院解散でいったん廃案になる。総選挙後、まったく同じ法案(提案者代表中山太郎(1924―2023)衆院議員の名をとって中山案とよばれる)が1996年12月に再提出されると、慎重派議員が翌1997年3月に、脳死を人の死とせずに臓器移植に道を開こうとする対案を提出、ようやく国会で審議が進み、論戦が行われた。最終的には、衆院でいったん可決された中山案が参院で修正され、生前に書面で臓器の提供に同意した人のみ脳死による死の判定を認めるという折衷案が1997年6月に可決され、「臓器の移植に関する法律(臓器移植法)」が成立した。脳死を完全な人の死とみなすことにためらいを示す日本人の多数の意識をよく反映した妥当な決着であったといえる。

 立法に至るまでにこれだけ時間がかかったのは、国民の間に意見の対立があったこともあるが、この時期、連立政権のたび重なる交代があり、また1995年に起きた阪神・淡路(あわじ)大震災や地下鉄サリン事件などのオウム真理教事件、エイズ薬害問題や住専(住宅専門金融機関)処理などほかの大案件が相次いでいて、国会も手いっぱいだったこともある。だがそれは決定的要因とはいいかねる。臓器移植立法が先送りされ続けたのは、結局は社会から低い優先順位しか与えられていなかったからだ、とみるべきではないだろうか。

[橳島次郎]

脳死移植の実現

ともかくこうして何年もかけてようやくできあがった臓器移植法が1997年10月から施行されたが、その後1年以上たっても脳死の臓器提供者は現れなかった。そのため厚生省(現厚生労働省)は、臓器提供認定施設を当初の90程度から一気に300以上に拡大し、その結果、1999年2月、新たに提供施設に認定された高知の病院で、移植法による初めての脳死者からの臓器提供が実現した。以後、同年6月末までに4人の脳死提供者から心臓移植3件、肝臓移植2件、腎臓移植8件、角膜移植2件が行われた。この間、マスコミの過剰報道による提供者家族などのプライバシー侵害や、脳死判定の手順ミスが相次いで起こり、問題になった。厚生省は急遽(きゅうきょ)1999年9月に、わかりやすい脳死判定と臓器提供の手順書を作成して関連機関に配布した。移植法成立以来、長い待機期間があったにもかかわらず、医療機関も行政もまったく準備不足だったことが露呈されたといえる。それ以後、2000年3月末に5例目の提供者が現れるまでに長い空白があり、脳死移植がどの程度日本の社会に受容されたといえるのか、はっきりしない状態が続いた。法律ができ脳死移植が実現しても、先に述べたさまざまな問題点は十分に検討されないまま、一件ごとのケースへの対応に追われるだけ、という状況だったのである。

[橳島次郎]

移植法施行10年までの推移

その後、臓器移植法が施行されて10年の間に、法に基づく脳死者からの臓器提供の件数(施行年次別脳死提供者数)は、1997年0件、1998年0件、1999年4件、2000年5件、2001年8件、2002年6件、2003年3件、2004年5件、2005年9件、2006年10件、2007年13件、2008年13件と、長く年間1桁(けた)台で推移した。2桁に届いたのはようやく2006年で、その後年10件台で安定するが、それ以上大きく増える様子はみられず、諸外国に比べれば非常に低い水準にとどまっている。

 これは、臓器提供の条件として生前の書面での同意を必須とする法規定が厳しすぎるせいなのか、それとも、日本人は脳死を人の死と割り切れず、脳死移植という行為を通常医療とは認めていないからなのか。脳死移植に対する賛否の議論は、いまだ決着がついていない。脳死は人の死か否かについても、世論は二分されたままの状態が続き、白黒はついていない。2007年秋の全国紙調査でも、脳死を人の死と認める人の割合は半数に届かなかった(朝日新聞2007年10月17日朝刊)。

[橳島次郎]

残された課題

問題の本当の所在とマスコミの偏り

だれもが脳死状態に陥らないように全力を尽くすのが、医療の本来の姿である。そうした医療を保障するのが、社会の責務である。脳死論議の核心は、この点にこそ置かれるべきだ。しかしこれまでの日本での論議は、マスコミの悪い意味でのニュース追求姿勢にゆがめられて、新奇な死の定義を、科学・医療の「進歩」として受け入れなければいけないか否かという、妙な賛成、反対の議論にすり替えられてしまった。それは、交通事故対策や卒中予防などを通じて、国民が脳死などにならないようにするのが追求すべき目標であるはずである。

 臓器移植についてもマスコミは、その利点と欠点を十分に押さえないまま、「移植でしか助からない患者がいる」という情緒をあおる報道を行うだけだった。成功すれば劇的で華やかな臓器移植、その成功例ばかりを大きく報道するマスコミのやり方は、心臓病や肝臓病との地道な戦いに対する見方をゆがめてしまう。移植を必要とするような病気を防ぎ、進行を食い止める道を探るのが、医療の本当の目標であるはずだ。そこに振り向けられるべき医学研究費や人材が、臓器移植に食われてしまうことがないよう、心すべきである。移植の実施は、解決ではない。治療の選択肢を一つ増やすだけのことである。心筋症や肝硬変などのもとの病気は、手つかずで残ったままなのだから。

 さらに臓器移植法施行後の問題点の検討においても、脳死者からの臓器摘出の条件が厳しすぎることばかりが強調され続けた。だが次に述べるように、それは移植医療の抱える問題のごく一部にすぎない。

[橳島次郎]

日本の臓器移植法の三つの欠陥

日本の臓器移植法は、(1)主要臓器のみ対象にし、それ以外の人体組織の採取と利用について規定がない、(2)(脳)死者からの臓器摘出について定めるのみで、生きている人からの摘出について規定がない、(3)移植目的のみ認めて研究利用について規定がない、という三つの欠落を抱えている。さらに、死体からの摘出要件についても、違反に対し罰則を定めていない。この「3プラス1」の欠落をどう改めるかが、日本の臓器移植法改正の真の論点である。

(1)人体組織の移植
 1980年代以降、欧米では角膜や骨髄だけでなく、骨、靭帯(じんたい)、血管、神経、皮膚、中耳、脳の硬膜、心臓弁など広範な人体組織が積極的に摘出され利用されている。アメリカでは200以上、フランスでは20くらいの各種組織バンクが、法的規制をほとんど受けずに活動している。そのためアメリカでは、各種組織は脳死者などから無償で提供されているにもかかわらず、保存、加工されたあとの組織が商品として流通している。

 組織移植は、今後いっそう、臓器移植よりも大きな比重を占めるようになるだろう。倫理的にも、人体の一部が医薬品として商業化されることの是非など、大きな問題をはらんでいる。イギリスや北欧の法律は、臓器と組織の両方を規制対象にしている。フランスも臓器だけだった法律を人体組織一般に拡大する、大規模な法改正を1994年に行った。このフランスのいわゆる「生命倫理法」は、さらに精子や卵子、遺伝子の扱いまで同じ一つの枠組みで規制、保護しようという、画期的なものである。日本も、発達を続ける生物医学技術全般から人を保護できる、もっと包括的な公的枠組みづくりが必要である。

(2)生きた人からの臓器移植の規制
 日本では、脳死移植より生体移植の数のほうがはるかに多く、腎臓や肝臓の移植に占める生体移植の割合は世界一高いにもかかわらず、法規制がなく野放しの状態にある。

 生体臓器移植は、健康な人に、その人の医療目的ではなく侵襲を加える、医療倫理の根本に抵触する行為で、法的には傷害罪を構成しうるものである。その違法性を阻却し、医療の正当業務として認められる条件を確定するために、立法が不可欠である。それが、諸外国の臓器移植法にかならず生体移植の規定がある理由である。日本で、脳死状態の人から臓器を提出する行為の違法性を阻却するために臓器移植法制定が求められたのと、まったく同じ論理である。日本の臓器移植法を世界標準にするには、脳死状態の人からの臓器の摘出条件の見直しだけでなく、生きている人から臓器を摘出してよい条件と、移植を受けられる人間関係を制限するなどの規制条項の導入を検討する必要がある。

 生体移植に関して、臓器移植法には唯一、生きた人のものも含め人の臓器の売買を禁止する条項が設けられていた。2006年10月愛媛県で、同法施行後初めてこの条項に基づいて腎臓売買が摘発され、同年12月、松山地裁で罰金100万円の有罪判決が下された。この事件は、売買が伴いやすい生体移植の倫理問題を改めて明らかにしただけでなく、移植執刀医のグループが、売買のケースとは別に、長年にわたり、腎臓腫瘍などの患者から摘出した「病気腎」を移植に用いていたことの暴露につながって、さらに大きな問題を提起した。いずれも背景には、深刻な臓器不足がある。

 厚生労働省は2007年に、実施施設での生体移植の自己管理の強化を求め、病気腎移植を現時点では妥当でないとする指針の改訂を行ったが、容認すべきとの意見も医学界の内外であり、今後に課題を残した。

[橳島次郎]

海外渡航移植:国際問題化する脳死・臓器移植

深刻な臓器不足は日本だけでなく世界的な現象で、ドナーを得やすい他国に臓器を求めて渡航する、いわゆる「臓器移植ツーリズム」を引き起こしている。日本ではかなり以前から、フィリピンなどアジアの近隣国で生きた人から腎臓を得るケースが問題視されてきた。臓器移植法施行後も日本人の海外渡航移植は後を絶たない。近年は中国で、おもに死刑囚から提供された臓器を外国人に移植するビジネスの横行が問題にされている。このため国際移植学会は2008年5月に、国際監視システムの導入、生体移植の制限、海外渡航移植の抑制と臓器の自国内調達努力を求める異例の宣言を行った(イスタンブール宣言)。日本も、この宣言の要請を誠実に実施する義務を負っている。

[橳島次郎]

国会での移植法改正の動き

長年の世論の対立を考慮して、臓器移植法には、施行後3年をめどに必要な見直しを行うとの規定が設けられていたが、その期限のうちには法改正は行われなかった。

 その後2006年から2007年にかけて、推進・慎重両方の考えを反映した改正案が3本、国会に提出された。

 脳死移植推進派からは、臓器提供の意思表示があった場合のみ脳死で死を判定し臓器の摘出を認める現行法に対して、脳死を一律に人の死とし、本人の意思表示がない場合でも家族の同意だけで臓器を摘出できるよう改正する案が出された(2006年3月31日第164国会衆法第14号、いわゆるA案)。

 これに対し脳死を一律に人の死とすることに反対する議員有志から、本人同意必須の規定は維持しつつ、臓器提供の意思表示ができる年齢の制限を、現行の15歳以上から12歳以上に引き下げる対案が提出された(2006年3月31日第164国会衆法第15号、いわゆるB案)。未成年者が臓器移植を受けられない法規定は改める必要があるとの認識に基づく改正案である。

 一方、1997年の最初の立法の際に、脳死移植に慎重な立場から対案を出した議員グループからは、脳死を一律に人の死とせず、逆に判定基準を厳しくするとともに、現行法では規定のない、組織の移植や生きた人から臓器を摘出し移植できる条件などを定めた改正案が提出された(2007年12月11日第168国会衆法第18号、いわゆるC案)。

 その後2008年には、衆議院厚生労働委員会の下に移植法小委員会が設けられ、参考人意見聴取が行われたが、法案審議は進まなかった。状況が大きく変わったのは2009年春で、移植学会などの一部の関係者が、5月に予定される世界保健機関(WHO)の臓器移植指針の改訂で、海外渡航移植が禁止されるので、法改正を急いで国内で移植を増やさないと、日本人の患者は行き場がなくなると訴えたのがきっかけだった。任期満了が近づき解散総選挙が間近に迫るなか、患者団体から国会の不作為が非難されたことも、大きな圧力となった。

 その結果、衆議院厚生労働委員会では法案審議が急ピッチで進められた。しかし脳死を一律人の死とする立場でつくられた多数派のA案への抵抗は強く、与野党の超党派の議員有志から、脳死を一律人の死とせず、15歳以上の人は本人同意を必須とする現行法を維持しながら、15歳未満の子供については例外的に親の代諾を認める折衷案が急遽(きゅうきょ)上程された(2009年5月15日第171国会衆法第30号、いわゆるD案)。

 第4の案まで出て衆院での審議は紛糾したが、大方の予想に反し、6月18日に行われた衆院本会議での採決では、多数でA案が可決・採択され、他の案は採決もされず廃案とされた。

 A案を送付された参議院では、野党全会派の議員有志から、脳死を一律人の死とせず、本人同意を必須とする現行法を維持しながら、子供の移植について検討するため臨時調査会を設置することをおもな内容とする対案が出された(子どもに係る脳死及び臓器の移植に関する検討等その他適正な移植医療の確保のための検討及び検証等に関する法律案、2009年6月23日提出第171国会参法26号、いわゆるE案)。さらに脳死を一律人の死とするA案への抵抗は参院与党議員の間にも根強く、A案が削除した現行法の「臓器提供に同意した者のみ、脳死を人の死とする」旨の限定規定を復活させることをおもな内容にした再修正案(いわゆる修正A案)が超党派で提出された。

 こうして参院でも衆院同様、厚生労働委員会の審議では脳死を人の死としてよいかどうかに議論が集中し、議員の間で意見は大きく分かれたが、2009年7月13日に行われた本会議での採決では、修正A案は圧倒的多数で否決され、A案が可決、成立した。E案は採決もされず廃案となった。任期満了が迫っていた衆院が解散されると、参院で審議中の法案もすべて廃案となるため、政局のあおりで採択が急がれたというのが大方の評価である。

[橳島次郎]

改正後に残された問題点

成立した改正法は、2009年7月17日に公布された(平成21年法律第83号)。この改正は、脳死後の臓器摘出について本人同意を必須とした規定を解除するという、旧法の根幹を変えるものなので、施行は公布の1年後とされた。その間、2010年夏までに、子供の脳死判定基準や、虐待され脳死に陥った子が臓器提供に回され死因究明が妨げられる事態をどう防ぐかといった、実施面での細則が決められ、新体制がスタートする運びである。家族の同意だけで脳死後の臓器摘出を認めたことで、どれだけ提供が増えるのか、注目される。

 今回の改正法には、もう一つ重要な要素がある。自分の親族に臓器を優先して提供するよう指定することができるという規定が新たに加えられたのである。旧法の施行下で、そうした意思が示された例が一度あり、認めるかどうか苦慮したことに対応した改正である。しかしこの規定は、移植機会は公平であるようにという移植法の理念を損なうものとして、A案の支持者の間でも疑問視されていた。諸外国の移植法にも、親族優先指定を認める規定はない。「親族」とはどの範囲までなのか(民法では血縁6親等、配偶者および姻族3親等までと定められている)、優先指定意思はどう示せばよいのか(書面か、口頭でもいいか)といった重要事項は行政の運用指針に委ねられた。この規定がどれだけ受け入れられるかわからないが、あまり優先提供が増えるようだと、移植医療を狭い人間関係に閉じ込めることになりかねない点が危惧(きぐ)される。

 以上の2009年改正では、先に述べた移植法の三つの欠落は一切手をつけられないまま終わった。2010年5月に改訂予定のWHOの移植指針では、脳死移植の推進とともに、臓器だけでなく人体組織の売買禁止と、生体移植の法規制も求められる運びである。改正された移植法でも、このWHOの改訂指針の要請に日本は対応できず、国際社会における責任を果たせないことになる。組織移植と生体移植について議論を行い、適正な規範を定めるさらなる法改正が必要だろう。

[橳島次郎]

国会審議の範となる先例として

このように日本の臓器移植法は、内容には足りないところがあるが、その制定と改正のプロセスは、国会審議のあり方を考えるうえで一つの範を示したものと評価できる。そのポイントは、以下の3点である。

(1)国会議員がそれぞれの考えに基づき超党派で複数の法案を提出し、国会議員同士の間で論戦が行われた。国民に幅のある選択肢を提示して議論を喚起した。

(2)党議拘束が外され、個々の議員の意思が示された。

(3)審議を通じ、より多数が合意しうる線が探られた。

 脳死・臓器移植問題に限らず、生命倫理の問題はすべて、多様な価値観を調整し社会の合意を形成するために、多大の労力を必要とする政策課題である。再生医療、生殖補助医療、遺伝子関連医療など、検討を必要としながら日本では手つかずの対象は多い。そうした生命倫理に関する社会の意思決定においては、臓器移植法が示した先例を模範とすべきである。

[橳島次郎]

『神戸生命倫理研究会編『脳死と臓器移植を考える』(1989・メディカ出版)』『橳島次郎著『脳死・臓器移植と日本社会』(1991・弘文堂)』『中島みち著『新々見えない死――脳死と臓器移植』増補最新版(1994・文芸春秋)』『粟屋剛『人体部品ビジネス――「臓器」商品化時代の現実』(1999・講談社選書メチエ)』『浅野健一『脳死移植報道の迷走』(2000・創出版)』『城山英巳『中国臓器市場』(2008・新潮社)』『立花隆著『脳死』(中公文庫)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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