寄合町(読み)よりあいまち

日本歴史地名大系 「寄合町」の解説

寄合町
よりあいまち

[現在地名]長崎市寄合町

丸山まるやま町の南西にある長崎そと町の一ヵ町。ヨリヤイとよばれた(明治二四年「長崎港精図」長崎図書館蔵)。もとは小島こしま郷のうちで、町並南北に形成され、隣接する丸山町とともに傾城町と記される(享和二年長崎絵図)。もと今石灰いましつくい町・大井手おおいで町・新紙屋しんかみや町・新高麗しんこうらい町などにあった遊女屋を集めて成立したとされ、寛永長崎港図にのちの桶屋おけや町周辺に「寄合町通り」と記される。寛永一九年(一六四二)平戸町人別生所糺によれば、平戸ひらど町のやす(いよや千松借屋)は京生れで、同一〇年「長崎寄合町」に来たという。同一九年遊女屋を丸山に集めることになって移転。慶長二年(一五九七)頃や寛永一一年伊勢参宮に赴いた寄合町衆は(「御参宮人抜書」橋村家文書)、旧地の時代であろう。正保四年(一六四七)の外町箇所数帳(柏原家文書)では箇所数四六。寛文三年(一六六三)大火では二六六間・家数四七を焼失(寛宝日記)、同一二年の間数二八〇間・実箇所数五〇・諸役御免箇所三(長崎県史)。乙名職は明暦年間(一六五五―五八)に北島新五右衛門が勤め、延宝年間(一六七三―八一)以降は芦苅家が世襲(慶応元年明細分限帳)。元禄二年(一六八九)改の間数二八〇間二尺余で、五〇箇所のうち三箇所が諸役御免(長崎拾芥)。「長崎実録大成」では五千一〇四坪。正徳町絵図では食違いのある両側町で、本町長さ一四八間余。文化五年(一八〇八)の長崎市中明細帳では町の縦の長さ一四九間四尺余・幅平均三間余で坪数四六六坪余(地子銀一貫二九匁)、箇所数五二、竈数七一・人家七六、人別一三八。五町組は丸山町と二町組、絵踏は一月八日、踊町は丸山町と毎年の奉納、出火の際の詰所は唐人とうじん屋敷詰、異船渡来の際は唐人屋敷・南瀬崎米蔵詰(文政五年惣町明細諸雑記など)。文久元年(一八六一)町内の利喜太郎家の入口土間に酔余のうえ寝ていたイギリス艦オーディン号の水夫コルラインズが顔に打水が引掛かったとして家財などを蹴倒すなど暴れ回ったため、往来の者も含めて捕物になり、水夫が死ぬ事件となった。


寄合町
よりあいちよう

[現在地名]高崎市寄合町

中紺屋なかこんや町の北に続く南北に長い町。東は町、西は玉田ぎよくでん寺と城郭、北は新紺屋しんこんや町。町の長さ一町二一間一尺、名主飯塚四兵衛・小林藤右衛門で、農工商業の雑居していることから寄合の町としていい伝えられていたが(高崎寿奈子)、「更正高崎旧事記」は武田氏の滅亡後、同氏家臣八家が箕輪みのわ(現群馬郡箕郷町)の城主内藤氏に降って同地で帰農し、高崎城築城とともに当地に移住したとする。


寄合町
よりあいちよう

[現在地名]中央区銀座ぎんざ八丁目

八官はちかん町の南にあり、南北に通る数寄屋すきや町通東側の片側町。東は山王さんのう町、南は堀(汐留川)、西は丸屋まるや町。承応江戸絵図には「ヨリアイ」とみえ、東側山王町との間は「嶋津やしき」とある。


寄合町
よりあいまち

[現在地名]和歌山市寄合町

卜半ぼくはん町の西に続く横町で、西詰はほり(伝法川)が流れ、寄合橋によって湊本みなとほん町一丁目に続く。文政一三年(一八三〇)の丁名増改時略図(田中家蔵)では東西六八間余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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