花房村(読み)はなぶさむら

日本歴史地名大系 「花房村」の解説

花房村
はなぶさむら

[現在地名]鴨川市花房

八色やいろ村の北、待崎まつさき右岸に位置する。戦国期の作とされる「日蓮聖人註画讃」巻一によれば、日蓮は建長五年(一二五三)四月二八日清澄せいちよう(現天津小湊町)で立宗し、同寺を追放後「西条華房郷」の青蓮房を寓居としたという。当時の「西条地頭」が念仏者であったため、日蓮は迫害を受けたらしい。この西条さいじよう長狭ながさ郡が平安時代末に東西に分割されて成立したもので、この時期地頭が置かれていた。文永元年(一二六四)安房に帰った日蓮は老母や師に再会し、九月には長狭郡西条華房はなぶさ郷蓮華寺で浄円房に註念仏無間法門一巻を与えている(同書巻二)


花房村
はなぶさむら

[現在地名]大野市花房

坂谷さかたに道に沿う農村で、九頭竜くずりゆう川の右岸にあり、南ははん村。慶長三年(一五九八)七月二一日の越州大野郡之内花房村御検地帳の写(「坂谷五箇村誌」所収)があり、田方一二町四反余・畠方五町、村高二八〇・六四石、うち七・一五石が荒地で、名請人は八名。正保郷帳では田方二一一石余・畠方六八石余。枝村に上村があった(越前国名蹟考)。初め福井藩領、寛永元年(一六二四)勝山藩領、正保元年(一六四四)幕府領福井藩預地、貞享三年(一六八六)幕府領、元禄四年(一六九一)以降勝山藩領。

寛文六年(一六六六)五月一四日付の一札(「坂谷五箇村誌」所収)によると隣村いわ(現勝山市)および萩ヶ野村と山論、また岩ヶ野村とは川境論をも起こしている。


花房村
はなぶさむら

[現在地名]妙高村花房

南西の米島よねじま新田からの道が当村を通り、北東田中たなか新田に続く。南東四ッ屋よつや新田がある。北にある花房山(四六〇・三メートル)は、文政三年(一八二〇)の頸城郡細見絵図では寺尾てらお山と記される。正保国絵図に「花巻村」とあり、高九七石余。天和三年郷帳では高一二八石六斗余、うち山高一斗五升・漆高四斗一升、ほかに正善しようぜん寺が記される。宝永年間(一七〇四―一一)当村の百姓五右衛門が出羽国より煙草種子を持帰り、花房煙草として江戸へ出荷されるようになったという。


花房村
はなふさむら

[現在地名]金砂郷村花房

久慈川とあさ川の下流の間にあり、東は大方おおかた村。建武三年(一三三六)八月の伊賀盛光軍忠状(飯野八幡社文書)に「同国馳向花房山大方河原之間、致合戦忠節候畢」とあり、天文一一年(一五四二)二月の某知行充行状写(水府志料所収文書)に「花ふさわり嶺山野関にて房に遣之候也」とみえる。

寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高に「花房村」とある。「新編常陸国誌」によると天保一三年(一八四二)久慈川沿いの鹿河原かがわら村を編入した。同書によると鹿河原は旧名鹿野河原かのがわらと称したという。水戸領郷高帳先高に「鹿河原村」とあり、「新編常陸国誌」には「正保二年今名ニ改ム、寛永中マデハ四戸ノ民屋アリシガ、後廃絶シテ一戸ヲモトドメズナリヌ、故ニ花房村民ノ耕ス所トナリ、天保一三年遂ニ其併スル所トナレリ」と記す。


花房村
はなぶさむら

[現在地名]伊万里市黒川町くろがわちよう花房

大野おおの(四二四メートル)の西北斜面を占め、集落は中腹二〇〇メートル台に立地。山頂から二五〇メートル台まで玄武岩に覆われ、その下は第三紀の砂岩層(畑津頁岩層)からなる。地質地形の境をなす緩斜面の湧水地が集落と耕地を育てている。小字名に平木場ひらこば入舟いりふね満汐みつしお川内道こうちみちとうげなどがある。


花房村
はなぶさむら

[現在地名]八尾町花房

上中山かみなかやま村の南、大長谷おおながたに川左岸にある。飛州二ッ屋村ひしゆうふたつやむら道が通る。正保郷帳に村名がみえるが、村高は上野名うえのみよう(上ノ名村)と合せて記される。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では上中山村の川を隔てて一〇町ほど南西方にある枝村新田としてみえ、高八一石。享保六年(一七二一)の村付高改帳(島倉家文書)では高一〇二石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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