若松庄(読み)わかまつのしよう

日本歴史地名大系 「若松庄」の解説

若松庄
わかまつのしよう

現堺市の南東部、上神谷にわだににあった庄園。嘉元四年(一三〇六)六月一二日付の亀山天皇皇女昭慶門院の御領目録(竹内文平氏旧蔵文書)にみえ、大鳥郡塩穴しあな庄などとともに後嵯峨天皇中宮大宮院(藤原子)から伝領され、三位局が庄務に関与していたことがわかる。正慶元年(一三三二)六月日の臨川寺領目録(天龍寺文書)によると、当庄は昭慶門院から後醍醐天皇皇子世良親王に譲られ領家年貢三〇〇石の収入があったが、本家は京都仁和にんな勝功徳しようくどく院であったらしい。同親王は元徳二年(一三三〇)九月に死去して、当庄の領有をめぐり内大臣僧正道祐などの競望があったが、翌三年二月に後醍醐天皇綸旨が出て京都臨川りんせん寺領として安堵された。しかし同年の九月頃から悪党楠兵衛尉が当庄に対して押妨を加えようとしているのでこれを確保するということを口実にして、和泉守護代による当庄の年貢収納があり、臨川寺による支配は有名無実になっていた。悪党楠兵衛尉とは楠木正成のことで、この行動は後醍醐天皇との緊密な連絡のもとに展開されたものではなかったかと考えられている。正嘉二年(一二五八)三月、後嵯峨上皇の紀州高野山参詣の時、警固役を勤めた和泉国御家人若松刑部丞や(同年四月一八日「和泉国御家人着到案」和田文書)、文永九年(一二七二)一〇月に京都大番役を勤めた和泉国上方御家人若松右衛門尉・同左衛門尉は当庄を本貫としていた武士と思われる(同月六日「和泉国御家人大番役支配状案」同文書)


若松庄
わかまつのしよう

庄域は現金沢市若松町を中心とする浅野川中流東岸一帯に比定される。文和三年(一三五四)一二月九日の足利尊氏袖判下文案(狩野文書、以下断らない限り同文書)に備後彦太郎跡の「加賀国若松庄地頭職」を狩野伊豆守義茂に勲功の賞として宛行ったとある。ところが「仁木左京大夫入道」(頼章か)掠奪したため、康安元年(一三六一)義茂に改めて返付された(同年一二月一五日足利義詮御判御教書案)。仁木氏は庶流の弥太郎義有が隣接する小坂おさか庄大志目(大衆免)村地頭職を与えられており(建武四年四月二一日「足利尊氏袖判下文」仁木文書)、これを足場に当庄地頭職を横領したとみられる。義詮による還付は延文四年(一三五九)嫡流左京大夫頼章が没し、康安元年頼章の弟右京大夫義長が南朝へ降伏したことにかかわる処置であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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