英彦山神宮(読み)ヒコサンジングウ

デジタル大辞泉 「英彦山神宮」の意味・読み・例文・類語

ひこさん‐じんぐう【英彦山神宮】

福岡県田川郡添田町の英彦山上にある神社。主祭神は天忍穂耳命あめのおしほみみのみこと。古く、修験者の道場として栄えた。旧称、英彦山権現英彦山神社

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精選版 日本国語大辞典 「英彦山神宮」の意味・読み・例文・類語

ひこさん‐じんぐう【英彦山神宮】

  1. 福岡県田川郡添田町英彦山にある神社。旧官幣中社。祭神は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)で、天照大神の御子であるところから日子山(ひこさん)と称する。平安時代以来、九州における護国安民の勅願所で、修験道の道場としても有名。「英彦山」の「英」の字は江戸時代に霊元法皇の院宣によって加えられた。英彦山(えひこやま)神社。彦山権現

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日本歴史地名大系 「英彦山神宮」の解説

英彦山神宮
ひこさんじんぐう

[現在地名]添田町英彦山

英彦山(一一九九・六メートル)の北西麓に鎮座する。祭神は天忍穂耳尊・伊弉諾尊伊弉冉尊。旧官幣中社。表参道石段の入口に寛永一四年(一六三七)に肥前佐賀藩主鍋島勝茂が寄進した銅鳥居(高さ六・九メートル、国指定重要文化財)があり、石段を登ると左側に雪舟作と伝える旧亀石坊かめいしぼう庭園(国指定名勝)がある。下宮にあたる本殿奉幣殿(国指定重要文化財)は当社最大の建物で、英彦山霊泉れいせん寺の大講堂ともいう。天平一二年(七四〇)に藤原清足が創建したと伝えるが、現在のものは元和二年(一六一六)に小倉藩主細川忠興が再建。境内にある梵鐘(県指定文化財)は文禄三年(一五九四)一二月吉日の年紀をもち、毛利久八郎吉勝が「彦山霊山寺」に寄進(日本古鐘銘集成)。本殿の背後を登ると中宮・上宮に至る。九州の修験道の中心として彦山(彦山権現・彦山神社)と称したが、享保一四年(一七二九)に霊元法皇より彦山に「英」の美称を冠した英彦山の勅額を下賜され(英彦山文書・「彦山来歴記」)、英彦山大権現を唱えた。なお彦山を権現とする早い例として、仁平二年(一一五二)の人聞菩薩朝記(石清水文書/大日本古文書四―五)、現庄内しようない筒野の権現つつののごんげん谷にある養和二年(一一八二)八月四日の年紀をもつ五智如来像板碑がある。明治初年の神仏分離までは霊仙れいせん寺の寺号を有していたが、以後修験道は廃止され、英彦山神社となる。昭和五〇年(一九七五)英彦山神宮と改称。

〔古代〕

 開山をはじめとする古代の彦山については史料が少なく多くを縁起類に頼らざるを得ない。現存する当宮のおもな縁起は彦山流記(撰者未詳)、鎮西彦山縁起(祇暁撰)、豊之前州彦山縁起(孤巌撰)の三書である。彦山流記は、原本とみられる高千穂家(現宮司)所蔵本に建保元年(一二一三)七月八日の奥書があることから、最古の縁起とされる。ただし建保改元は一二月六日であるため、紀年には疑問がある。鎮西彦山縁起は元亀三年(一五七二)三月一一日の奥書をもち、原本が高千穂家(ただし前欠)、完全な写本が高田家(現彦山修験道霊泉寺住職)に所蔵され、豊之前州彦山縁起は奥書に元禄七年(一六九四)とみえ、蒲池家所蔵本をはじめとする多くの写本がある。これらの縁起によると、継体天皇二五年に入山した北魏の善正法師に豊後国日田郡の藤原恒雄が遭遇し、忍辱と名を改め、善正が持参した神像を祀った。あるいは甲寅年(五三四)に彦山権現が中国天台山の王子晋の旧跡を経て彦山に登り、地主神が当山を彦山権現に譲ったなどという仏教伝承もある。

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改訂新版 世界大百科事典 「英彦山神宮」の意味・わかりやすい解説

英彦山神宮 (ひこさんじんぐう)

福岡県田川郡添田町英彦山に鎮座。古くは日子山とも記し,祭神は天照大神の子天忍骨尊(天忍穂耳命の別名)で伊佐奈伎尊,伊佐奈美尊を相殿にまつる。《延喜式》神名帳にみえる忍骨命神社がこれにあたるともいわれる。《彦山流記》(1213年成立)によれば三神は英彦山山頂の三岳に天降るとし,本地仏には,釈迦,弥陀,不動が当てられ,継体25年猟師藤原恒雄が山を開き,のちに僧法蓮が法統をついだと伝える。822年(弘仁13)に天台宗彦山霊仙寺が建立されている。919年(延喜19)豊前守惟房の奉幣や,1062年(康平5)源頼義の安倍貞任鎮定祈願があり,また1094年(嘉保1)には大宰大弐藤原長房が彦山の衆徒の蜂起により逐電するという事件もおきている。平安末期には彦山は新熊野(いまくまの)社領となり熊野修験が入った。盛時は周辺霊山を含め四十九窟の霊場をつくり3800坊を有し西国修験道場の中心といわれた。鎌倉末期法親王が座主に入って以後妻帯して子孫に世襲され,明治以後は宮司となった。天正年間(1573-92)に大友宗麟に焼かれ,豊臣秀吉の九州征伐以降近世には衰えた。しかし1616年(元和2)奉幣殿が細川忠興によって再興され,その後,霊元上皇より額を賜い,表記は〈英彦山〉に定着した。神仏分離により1868年(明治1)座主以下復飾,神祇官管下に入り,71年国幣小社英彦山神社,97年官幣中社,第2次大戦後神社庁別表神社となり,1975年以降は英彦山神宮と称している。神事に汐井採,御田祭神幸祭,鉞行事等がある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「英彦山神宮」の意味・わかりやすい解説

英彦山神宮
ひこさんじんぐう

福岡県田川郡添田(そえだ)町英彦山に鎮座。主神として正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(まさやあかちかちはやひあめのおしほみみのみこと)を祀(まつ)る。一名を彦山権現(ひこさんごんげん)ともいう。天忍穂耳尊は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御子で、英彦山に降臨されたことから、日子山(ひこさん)と称する。神武(じんむ)天皇東征に際し、天村雲命(あめのむらくものみこと)を派遣して天忍穂耳尊を鎮祭し、崇神(すじん)天皇41年、英彦山頂に社殿が創建されたと伝える。奈良時代に至り役行者(えんのぎょうじゃ)が来山して修験道(しゅげんどう)の道場をおこし、やがて彦山修験道が形成された。嵯峨(さが)天皇が護国安民の勅願所と定めてより、歴朝の勅願所として隆昌(りゅうしょう)を極め、その神宮寺は霊仙寺(りょうせんじ)と号した。豊臣(とよとみ)秀吉は九州下向に際して彦山権現の隆盛を恐れ、その社領を没収したという。また霊元(れいげん)天皇は彦山に「英」の字を加え、英彦山と改称せしめた。旧官幣中社。奉幣殿(ほうへいでん)、銅(かね)の鳥居は社蔵の修験板笈(いたおい)とともに国指定重要文化財。ほかに霊元天皇宸筆(しんぴつ)、経筒(きょうづつ)、豊臣秀吉書状などがある。例祭日は9月28日。特殊神事として3月15日の御田祭(おんだまつり)、4月14、15日の神幸祭がある。

[二宮正彦]


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百科事典マイペディア 「英彦山神宮」の意味・わかりやすい解説

英彦山神宮【ひこさんじんぐう】

福岡県添田町英彦山に鎮座。彦山権現と通称。旧官幣中社。天忍穂耳(あめのおしほみみ)尊などをまつる。祭神は英彦山に降臨し,瓊瓊杵(ににぎ)尊の建国の事業を助けたという。神武天皇の東征のときの鎮祭と伝える。中世から修験(しゅげん)道の霊場として栄えた。重要文化財の修験板笈のほか,修験道関係などの民俗文化財が多く残される。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「英彦山神宮」の意味・わかりやすい解説

英彦山神宮
えひこさんじんぐう

福岡県田川郡添田町英彦山に鎮座。三所権現,彦山権現,ひこさん神宮ともいう。元官幣中社。祭神はアメノオシホネノミコト。イザナギノミコト,イザナミノミコトを配祀。例祭9月 28日。修験者の道場で,護国安民の祈祷所として名高い。

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デジタル大辞泉プラス 「英彦山神宮」の解説

英彦山(ひこさん)神宮

福岡県田川郡添田町の英彦山にある神社。祭神は天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)、伊邪那美命(いざなみのみこと)。創祀は諸説あり不詳。桃山建築の奉幣殿は国の重要文化財に指定。

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