弥勒信仰(読み)みろくしんこう

改訂新版 世界大百科事典 「弥勒信仰」の意味・わかりやすい解説

弥勒信仰 (みろくしんこう)

インドに成立し,東南アジア・東アジアの諸民族に受容された弥勒信仰は,未来仏である弥勒菩薩(マイトレーヤMaitreya)に対する信仰で,仏教に内包されたメシアニズムである。弥勒菩薩は釈尊入滅の56億7000万年後に,弥勒浄土である兜率天(とそつてん)よりこの世に出現し,竜華樹の下で三会にわたって説法し,衆生救済を果たすと信じられている。インドにおける弥勒信仰の前身の一つは,ヒンドゥー教における救済者カルキの存在である。カルキは未来において人間の寿命が23歳となった末世に,この世に出現して人々を救済すると説かれていた。また弥勒は別称アジタとよばれるバラモンの弟子だとする説もある。本来アジタと弥勒(マイトレーヤ)は別々の存在であったのが,同一視されるようになったという。仏典〈弥勒三部経〉すなわち《弥勒下生経》《弥勒大成仏経》《弥勒上生経》が,教理の中心である。弥勒下生の地は,ゲートマティとよばれる都市とされ,その地はすばらしいユートピアとして描かれている。したがって,弥勒信仰はユートピアをめざす千年王国運動(至福千年運動)とかかわる性格をもつのである。事実,中国の弥勒信仰は,民衆の反乱運動と結びついて展開した。朝鮮半島においても同様な事例が認められ,とくに19世紀末の社会変動期に弥勒下生信仰が顕在化し,新宗教運動のかなめとなった。また,新羅花郎も弥勒信仰の影響を受けていた。

中国・朝鮮半島を経て6世紀に伝来した日本の弥勒信仰は,最初百済の弥勒信仰の影響が強かったが,しだいに定着して民俗信仰となった。弥勒信仰の一般的展開からみると,まず下生信仰が成立し,次に上生信仰に変化したと考えられているが,日本仏教史の上では,弥勒信仰を受容した貴族社会が,まず上生信仰を展開させた。下生信仰の未来性が,貴族たちの個人的信仰と相容れなかったためである。しかし真言宗の空海による弥勒信仰は,高野山を将来の弥勒浄土とみたて,そこに入定して,弥勒出世を待機する内容であり,弥勒下生の一つのタイプを示している。真言宗の民間信仰との接触により,弥勒信仰は各地に広まっていた。とくに15~16世紀に,東日本の鹿島地方を中心に弥勒下生の信仰が強まった。この背景には,太平洋のかなたから〈弥勒の舟〉が鹿島地方に到来するという伝統的な信仰に支えられている。江戸時代の代表的な山岳信仰である富士講の教祖身禄(みろく)は,入定行者の系譜をひき,〈弥勒の世〉の現実化をめざしたもので,近代の大本教(おおもときよう)などの新宗教運動の嚆矢(こうし)となった。
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中国においても弥勒がこの世に下生することにより理想的政治が実現するという民衆の信仰は強く,この信仰を組織して弥勒の名の下に宗教反乱がくり返された。自然災害,あるいは悪政によって困窮の生活に追い込まれた民衆の心をこの信仰の下に団結し,その力を利用して反乱が企てられたのであるが,そのたびに為政者邪教として禁圧を加えている。

 北魏時代(386-534)の大乗教徒の乱はその先ぶれとされるが,弥勒の名を用いたのは,613年(大業9),隋の煬帝(ようだい)の時代の河北における宋子賢がはじめである。〈弥勒出世〉と自称した彼は幻術にたけ,夜になると光を使って楼上に仏の姿を現出させたり,あらかじめ紙上にかいた蛇や獣,人間の姿を鏡を使ったトリックで映し出し,罪業のあかしとして見せたりして民衆の帰依を得たが,挙兵の前に発覚し殺された。同じ年に陝西の扶風では,沙門の向海明が,帰心すれば吉夢(よいゆめ)を得られるとして人々を惑わし,乱を起こしてみずから皇帝と称し,年号も新たに立て数万が蜂起したが,鎮圧された。また,反乱ではないが,弥勒信仰あるいは讖緯説(しんいせつ)を利用して革命し政権をとったのが則天武后である。妖僧薛懐義(せつかいぎ)らに〈則天は弥勒仏の下生にして,閻浮提の主とならん〉の語句を含んだ《大雲経》を偽作させ,これにより周を建てた。時代が下り,玄宗の世には河北省の貝州で王懐古がやはり〈新仏〉の下生を妖言して乱を起こし,唐末には四川で,秘密教団としての弥勒会が生まれ,反乱を起こした。しかし,彼らの組織やその布教活動を示す具体的な史料は,ほとんど残っていない。

 五代の時代には,狂僧布袋和尚が弥勒の化身とされ,民間ではしきりにその図像が描かれ,今日に至るまで,布袋の姿が弥勒仏の像となっている。北宋では,仁宗の時代(1023-63)に貝州で起きた王則の反乱がある。彼は弥勒会の教徒を動かし,みずから東平郡主と称し,国号を安陽,年号を得聖とし,殺害劫奪を繰り返したが,60余日にして鎮圧された。連座したものの中には官僚層の人物もおり,当時の弥勒教の浸透の深さがうかがえる。その後南宋には白蓮宗が生まれ,弥勒教と合体して白蓮教となり,元末の紅巾の乱,あるいは明・清時代の民衆反乱の中に生き続けた。
白蓮教の乱
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旺文社日本史事典 三訂版 「弥勒信仰」の解説

弥勒信仰
みろくしんこう

弥勒菩薩に対する信仰
弥勒は浄土である兜率天 (とそつてん) で天人のために説法しているが,56億7000万年ののち,この世に現れて衆生を救済するとされている。そこから弥勒の兜率天に往生しようとする上生信仰と,弥勒の下生に合わせて現世に再生したいという下生信仰とが盛んとなった。上生信仰は古代に行われ,下生信仰は中世〜近世に行われた。

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世界大百科事典(旧版)内の弥勒信仰の言及

【鹿島信仰】より

…災厄を送り出す代りに幸運をもたらしてくれる,そうした境の両義的性格が鹿島信仰の特徴といえる。鹿島踊鹿島神宮弥勒信仰【宮田 登】。…

【蔵王権現】より

…《本朝法華験記》に,849年(嘉祥2)に没した僧転乗が生前金峰山の金剛蔵王宝前に参詣した話を載せているので,平安初期に奉斎されていたことは確実である。平安中期に弥勒(みろく)信仰が盛んになり,金峰山は弥勒浄土の兜率(とそつ)内院に擬せられ,金剛蔵王は弥勒の化身とされた。これによって御嶽詣(みたけもうで)するものが多く,金峰山は天下第一の霊験所,蔵王は日域(日本)無二の化主とまでいわれた。…

【浄土教】より

… 兜率天で修行中で,釈迦没後56億7000万年にこの地上におりてきて竜華三会の説法を行うとされる弥勒菩薩を信仰する弥勒浄土信仰には,弥勒下生信仰と弥勒上生信仰の二つがあり,それぞれ《弥勒成仏経》《弥勒下生経》と《弥勒上生経》に説かれていて,これらを〈弥勒三部経〉とよぶ。中国における弥勒浄土信仰は,道安とその門弟に始まるとされ,法顕も西域やインドの弥勒信仰を伝え,北魏時代には隆盛をきわめ,竜門石窟の北魏窟,つまり5世紀末から6世紀前半にかけての時期には弥勒像が目だつ。しかし,隋・唐時代になると阿弥陀仏の西方浄土信仰にとってかわられる。…

【新羅】より

… 金銅造彫刻は,小金銅仏が圧倒的に多く,国立中央博物館の薬師如来立像やソウル三陽洞発見の観音菩薩立像,慶尚北道善山発見の観音菩薩立像などが6世紀後期の制作として注目される。また,7世紀初期から中期にかけて造立されたと考えられている半跏思惟像は,三国の統一を目ざした新羅の支配階層,とりわけ,花郎徒の熱烈な弥勒信仰を背景として制作されたものといわれている。 660年に百済を,668年に高句麗を討って三国統一に成功した新羅は,単に領土の統一を行ったばかりでなく,百済や高句麗の優れた文化を吸収して,新しい統一新羅の美術として結実させている。…

【布袋】より

…滅後はさらに俗信が加わって,その像を画いて福を祈る風が生まれ,水墨画のテーマとなる。近代は弥勒信仰の拡大とともに,いずれの寺でも,宗派を問わず,その木像を祭るようになり,観世音菩薩とあわせて,民衆にもっとも魅力のある尊像となる。日本でも,早くより七福神の一人として,招福の神とみられるが,黄檗宗の伝来によって,その信仰がいよいよ強まり,今日に至る。…

※「弥勒信仰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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