荏原郷
えはらごう
「和名抄」後月郡荏原郷の郷名を継いだものか。小田川周辺の現井原市東江原町・西江原町付近一帯に比定される。
建武三年(一三三六)二月六日の後醍醐天皇綸旨(白河結城文書)によれば、結城宗広に「備中国荏原、草間両条」など四ヵ所の替地として三河国渥美郡野田郷(現愛知県渥美郡田原町)など九郷が与えられており、年月日未詳の結城宗広所領注文案(結城文書)にも「荏原条」とみえる。那須系図によれば、弓の名手那須与一宗隆は、屋島(現香川県高松市)の合戦で扇を射落した功により備中「絵原庄」などを拝領、のち兄の之隆(資之)―婿頼資(宇都宮朝綱の子)に譲られ、頼資の子朝資は荏原三郎と称している。
荏原郷
えばらごう
「和名抄」高山寺本・流布本ともに「荏原」と記し、高山寺本のみ「衣波良」と訓ずる。荏原はのちに「会原」とも書いた。建武二年(一三三五)に、河野通盛が足利尊氏に呼応して中興政府に反抗した時、中予における重要拠点となったのは荏原城であった。宮方の忽那氏が同年一二月から翌年二月にかけて、この城を攻撃したことは、忽那一族軍忠次第(忽那家文書)のなかに「一会原城 自建武二年十二月廿九日至二年二月」とあるので明らかである。頼篤書状(河野家文書)によると、荏原地域が南朝の所領に徴発された旨を、伊予守護河野通尭に指示している。この文書には年号を欠くが、建徳三年(一三七二)頃のものと推定される。
荏原郷
えばらごう
「和名抄」所載の郷。同書東急本に「江波良」と訓じる。荏原の郡名を負う郷なので郡家が置かれていたと推測されるが、遺称地名を欠きどこの辺りか判然としない。「日本地理志料」は現品川区域の品川・中延・小山、大田区域の桐里・石川・池上本・雪ヶ谷、現目黒区碑文谷にかけての一帯にあて、「大日本地名辞書」は中延、現渋谷区渋谷、現世田谷区域の上馬・下馬の辺りとしているが、依拠ありとはいえない。
荏原郷
えはらごう
「和名抄」高山寺本は「夜浪良」、東急本は「江波良」の訓を付す。郷域について「大日本地名辞書」は現井原市神代町・東江原町とし、「岡山県通史」は東江原町・西江原町、ほかに両説を併せた地域とする説もある。
荏原郷
えはらごう
「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが武蔵国荏原郡の訓「江波良」(同書東急本)と同じくエハラであろう。諸説のいずれも現深谷市の江原をその遺称地として、そこを中心とする一帯とみている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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