デジタル大辞泉
「荒木古童」の意味・読み・例文・類語
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あらき‐こどう【荒木古童】
- 琴古流尺八の名家の芸名。二世。旧近江水口(みなくち)藩士。豊田古童、久松風陽に学ぶ。琴古流再興の祖といわれる。文政六~明治四一年(一八二三‐一九〇八)
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荒木古童 (あらきこどう)
琴古流尺八家の芸名。初世は豊田古童。2世は,姓は継がず名のみ継いで荒木姓に変わり,以後代々実子が襲名して現在5世に至る。2世が最も有名。(1)初世(?-1851(嘉永4)) 旗本の出身。本名豊田勝五郎。一閑流(化政期~明治期の琴古流の支流)の山田如童の高弟。(2)2世(1823-1908・文政6-明治41) 近江の水口藩士荒木亀三郎の三男。本名は半三郎。幼年から尺八を好み,14歳で一閑流の横田五柳に師事し,主に外曲を学ぶ。のち尺八修練のため虚無僧となって托鉢中に豊田古童に出会い,師事して本曲を学び,豊田の没後,29歳で古童の名を継いだ。その後さらに琴古流の実力者(4世琴古のあと家元的存在)の久松風陽に師事し,琴古流本曲を学んだ。1871年(明治4)普化宗(ふけしゆう)が廃止され,尺八界は存亡の危機に立たされたが,風陽門下の先輩吉田一調と協力して復興に努力し,従来の本曲(尺八だけで演奏するように作曲された曲)のほかに外曲(三絃。箏の曲に尺八を合奏する)を盛んにして一般人への普及をはかり,普化宗から脱却した音楽としての琴古流尺八楽の基を作った。具体的業績としては,尺八楽譜の改良(門弟の上原六四郎が協力)と,地歌,箏曲への尺八手付け(地歌三絃の名手長瀬勝雄一(まさおいち)が協力)の2点が挙げられる。1896年長男に古童の名を譲り,竹翁(ちくおう)と号した。(3)3世(1879-1935・明治12-昭和10) 本名真之助。父を継いで,大正~昭和初期にかけて琴古流の中心的存在となった。(4)4世(1902-43・明治35-昭和18) 3世の四男。本名聚。前名梅旭(ばいぎよく)。現5世はその長男(本名達也)。
執筆者:上参郷 祐康
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荒木 古童(初代)
アラキ コドウ
- 職業
- 尺八奏者
- 本名
- 荒木 半三郎
- 別名
- 別号=梅旭,竹翁
- 生年月日
- 文政6年
- 出生地
- 近江国(滋賀県)
- 経歴
- 近江水口藩士の子として生まれる。早くから一閑流の横田五柳に師事して尺八を習い、のち虚無僧となって各地を流浪。やがて琴古流尺八の名手豊田古童に入門、その技芸を受け継ぎ、師の没後、29歳で古童の号を襲名した。さらに久松風陽のもと尺八の本曲で修業。明治4年に虚無僧の普化宗が廃止されたのち尺八界に混乱が起こると、同じく風陽門下の吉田一調と共に尺八の復興に尽力。箏・三味線との三曲合奏を創始したほか、楽器の改良・地歌の尺八譜作成などを行い、その楽器としての価値を高めた。29年長男の真之介に古童の名を譲り、以後は竹翁を名乗る。また、上原六四郎・川瀬順輔(初代)・三浦琴童らすぐれた門下を育て、尺八中興の祖と呼ばれる。
- 没年月日
- 明治41年 1月17日 (1908年)
- 家族
- 長男=荒木 古童(2代目)
荒木 古童(4代目)
アラキ コドウ
- 職業
- 尺八奏者(琴古流)
- 本名
- 荒木 聚
- 別名
- 号=梅旭
- 生年月日
- 明治35年 8月15日
- 出生地
- 東京
- 学歴
- 早稲田実業学校
- 経歴
- 3代目荒木古童の四男。9歳から父の直弟子として尺八を習い、大正12年梅旭の号を許されて、父が主宰する童窓会幹部となった。また早大関係者の童蛙会を指導。尺八のほか三弦、箏、雅楽、洋楽も研究、父の死後4代目古童を襲名。二男達也が5代目を継いだ。
- 没年月日
- 昭和18年 7月1日 (1943年)
- 家族
- 父=荒木 古童(3代目)
荒木 古童(3代目)
アラキ コドウ
- 職業
- 尺八奏者(琴古流)
- 本名
- 荒木 真之助
- 生年月日
- 明治12年 2月1日
- 出身地
- 東京
- 経歴
- 2代目荒木古童の長男。当初は画家を目指し松本楓湖の下に入門。後に父を継いで尺八を学ぶ。明治29年父の引退を機に3代目古童を襲名。近代の名人といわれ、三曲界の指導的立場にあった。
- 没年月日
- 昭和10年 5月2日 (1935年)
- 家族
- 父=荒木 古童(2代目)
出典 日外アソシエーツ「新撰 芸能人物事典 明治~平成」(2010年刊)新撰 芸能人物事典 明治~平成について 情報
荒木古童
あらきこどう
琴古(きんこ)流尺八家の芸名。現在まで5世を数える。初世古童(?―1851)は本名豊田勝五郎で、2世以降荒木古童となる。2世(1823―1908)は本名荒木半三郎、水口藩士荒木亀三郎の三男。幼少より尺八を好み、14歳で横田五柳に入門、外曲(がいきょく)を学ぶ。その後、虚無僧(こむそう)修行中に初世古童と巡り会い、門弟となって、師の没後2世を継ぐ。さらに久松風陽(ふうよう)に本曲(ほんきょく)を学び、梅旭(ばいきょく)と号した。明治初めの普化宗(ふけしゅう)廃止(1871)にあたり、尺八復興に努力、琴古流中興の祖とよばれる。尺八の指孔位置や歌口(うたぐち)を改良して、三曲尺八(外曲)の普及に努めた。1896年(明治29)長男真之助に3世古童(1879―1935)の名を譲り、竹翁(ちくおう)と改める。以後実子継承で、4世(1902―1943)、5世(1938― )に至る。
[月溪恒子]
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荒木 古童(4代目)
アラキ コドウ
昭和期の尺八奏者(琴古流)
- 生年
- 明治35(1902)年8月15日
- 没年
- 昭和18(1943)年7月1日
- 出生地
- 東京
- 本名
- 荒木 聚
- 別名
- 号=梅旭
- 学歴〔年〕
- 早稲田実業学校
- 経歴
- 3代目荒木古童の四男。9歳から父の直弟子として尺八を習い、大正12年梅旭の号を許されて、父が主宰する童窓会幹部となった。また早大関係者の童蛙会を指導。尺八のほか三弦、箏、雅楽、洋楽も研究、父の死後4代目古童を襲名。二男達也が5代目を継いだ。
荒木 古童(3代目)
アラキ コドウ
明治〜昭和期の尺八奏者(琴古流)
- 生年
- 明治12(1879)年2月1日
- 没年
- 昭和10(1935)年5月2日
- 出身地
- 東京
- 本名
- 荒木 真之助
- 経歴
- 2代目荒木古童の長男。当初は画家を目指し松本楓湖の下に入門。後に父を継いで尺八を学ぶ。明治29年父の引退を機に3代目古童を襲名。近代の名人といわれ、三曲界の指導的立場にあった。
出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報
荒木古童(2世)
あらきこどう[にせい]
[生]文政6(1823)
[没]1908.1.17. 東京
琴古流尺八家。本名荒木半三郎。近江水口藩士の子。初め一閑流の横田五柳に主として外曲を学び,のち,虚無僧として托鉢中に1世豊田古童とめぐり合い,古童に師事して本曲を学ぶ。師の没後,古童の名を継ぎ,さらに久松風陽の門に入り,琴古流となる。普化宗廃止後の尺八界の混乱のなかで,芸術音楽としての尺八再興のために,同門の吉田一調と協力して奔走努力。地歌箏曲との合奏の開拓に力を注ぎ,三曲合奏の道を開き,楽器,楽譜を改良,多くの門人を養成して,近代の尺八楽興隆に大きな功績を残す。 1896年,引退して竹翁と号した。
荒木古童(3世)
あらきこどう[さんせい]
[生]1879.2.1. 東京
[没]1935.5.2. 東京
琴古流尺八家。2世荒木古童の長男。本名荒木真之助。明治末から大正にかけての琴古流の中心人物。よく父業を継ぎ,三曲合奏の尺八編曲に荒木手法と呼ばれる独自の工夫を加えた。
荒木古童(4世)
あらきこどう[よんせい]
[生]1902.8.15. 東京
[没]1943.7.1. 東京
琴古流尺八家。3世荒木古童の4男。本名荒木聚。 1923年梅旭と号し,父に師事し,父の死後,4世を襲名。三弦や雅楽,洋楽も研究した。
荒木古童(5世)
あらきこどう[ごせい]
[生]1938.7.30. 東京
琴古流尺八家。4世荒木古童の長男。本名荒木達也。アメリカで尺八の普及に努める。
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荒木古童(2代)
没年:明治41.1.17(1908)
生年:文政6(1823)
幕末明治期の尺八奏者。本名は半三郎。近江(滋賀県)水口藩士荒木亀三郎の3男として生まれ,幼時から尺八を好む。最初,一閑流の横田五柳に学び,次いで虚無僧となり,琴古流の尺八奏者豊田古童と巡り会ってその門人となる。師の号古童を継いだのち,さらに久松風陽に師事,普化宗廃宗(1871)にともなう混乱期には久松門下の吉田一調とともに,それまでの「法器」から「楽器」としての尺八復興に力を尽くした。箏,三味線との三曲合奏への道を開いた功績は特筆される。号を実子に譲ったのちは竹翁を名乗った。門下には上原六四郎,初代川瀬順輔,三浦琴童などがいる。
荒木古童(3代)
没年:昭和10.5.2(1935)
生年:明治12.2.1(1879)
明治から昭和にかけての琴古流尺八奏者。本名は真之助。2代目古童の長男。2代目没後の大正期には,竹友社を主宰した初代川瀬順輔(1870~1959)らと共に琴古流の中心となって活躍した。父が重きを置いた,地歌箏曲との提携を受け継ぎ,三曲合奏(箏,三味線,尺八の合奏)をよくし,名人といわれた。上原六四郎,三浦琴童(1875~1940)など2代目古童の門下には実力者が多く,3代目古童はその中にあって流勢の確立に努めた。門人には,初代納富寿童らがいる。
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
荒木古童【あらきこどう】
琴古流(きんこりゅう)尺八家の芸名。初世〔1823-1908〕は幼少より尺八を学び,虚無僧修行中に豊田古童に師事し,1871年普化宗(ふけしゅう)廃止後も尺八の普及につとめ,琴古流尺八中興の祖といわれる。三曲に適合するよう尺八を改良した人としても有名。以後実子継承を続けて現在まで4世ある。ただし豊田古童を初代として数えるために,代数としては五代と称する。
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荒木古童(初代) あらき-こどう
1823-1908 江戸後期-明治時代の尺八奏者。
文政6年生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)の人。横田五柳,豊田古童にまなぶ。師の没後29歳で古童の名をつぐ。さらに久松風陽に師事。明治4年普化宗(ふけしゅう)廃止後,吉田一調とともに尺八楽復興のため政府にはたらきかける。尺八の改良,地歌の尺八譜の考案などにつとめ,琴古(きんこ)流中興の祖といわれる。明治41年1月17日死去。86歳。本名は半三郎。別号に梅旭,竹翁。
荒木古童(2代) あらき-こどう
1879-1935 明治-昭和時代前期の尺八奏者。
明治12年2月1日生まれ。初代荒木古童の長男。父にまなび,明治29年古童の名をつぐ。琴古(きんこ)流尺八の名人といわれ,三曲尺八界をリードしておおくの奏者をそだてた。昭和10年5月2日死去。57歳。東京出身。本名は真之助。
荒木古童(3代) あらき-こどう
1902-1943 大正-昭和時代前期の尺八奏者。
明治35年8月15日生まれ。2代荒木古童の4男。兄弟の中からえらばれ,大正12年梅旭の号をゆるされる。父の没後,古童の名をつぐ。雅楽や洋楽も研究した。昭和18年7月1日死去。42歳。東京出身。早稲田実業卒。本名は聚。
荒木古童(4代) あらき-こどう
1938- 昭和後期-平成時代の尺八奏者。
昭和13年7月30日生まれ。琴古(きんこ)流3代荒木古童の長男。昭和37年4代を襲名し,アメリカの大学でおしえた。東京出身。本名は達也。
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荒木 古童(3代目) (あらき こどう)
生年月日:1879年2月1日
明治時代-昭和時代の琴古流尺八奏者
1935年没
荒木 古童(4代目) (あらき こどう)
生年月日:1902年8月15日
昭和時代の琴古流尺八奏者
1943年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
世界大百科事典(旧版)内の荒木古童の言及
【尺八】より
…その中では,幕末の大坂で外曲(三曲合奏)を主として活躍した[近藤宗悦](そうえつ)の宗悦流(現存しない),京都明暗(みようあん)寺の明暗真法(みようあんじんぽう)流,浜松普大寺系統の西園(せいえん)流,弘前の津軽藩士のたしなみとなった錦風(きんぷう)流(根笹(ねざさ)派とも)などがよく知られる。普化宗は1871年(明治4)に維新政府の命令で廃止され,尺八も存亡の危機に面したが,[荒木古童]など当時の琴古流の指導者の尽力により普化宗を離れた楽器としての存続が認められ,以来,琴古流では本曲よりも外曲に力を注ぐようになり,東京を中心としつつ全国的に普及していく。一方,関西では宗悦流の影響が強く,早くから外曲が盛んだったが,その中から初世[中尾都山](とざん)が大阪で1896年に都山流を創始する。…
※「荒木古童」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」