虚無僧(読み)コムソウ

デジタル大辞泉 「虚無僧」の意味・読み・例文・類語

こむ‐そう【虚無僧】

普化ふけ有髪の僧。宗祖普化禅師の遺風と称して、天蓋てんがいとよぶ深編み笠をかぶり、首から袈裟けさ餉箱げばこを掛け、尺八を吹いて米銭を乞い、諸国を行脚し修行した。こもを携えて野宿したところからとも、また、「虚無」は空の意とも人名ともいう。普化僧薦僧こもそう
[類語]雲水旅僧行脚僧山伏雲衲うんのう普化僧薦僧こもそう行者修験者梵論ぼろ遍路

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精選版 日本国語大辞典 「虚無僧」の意味・読み・例文・類語

こむ‐そう【虚無僧】

  1. 〘 名詞 〙 禅宗の一派の普化宗(ふけしゅう)の僧。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧。江戸時代、罪を犯した武士は普化宗の僧となれば、刑をまぬがれ保護された。多く小袖に袈裟(けさ)を掛け、深編笠を被り刀を帯した。古くは、「こもそう(薦僧)」ということが多く、もと坐臥用のこもを腰に巻いていたところからという。普化僧。
    1. 虚無僧〈大和名所図会〉
      虚無僧〈大和名所図会〉
    2. [初出の実例]「古無僧一人、尺八を吹、我門に立たり」(出典:慶長見聞集(1614)三)

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改訂新版 世界大百科事典 「虚無僧」の意味・わかりやすい解説

虚無僧 (こむそう)

菰僧(こもそう),薦僧(こもそう),梵論字(ぼろんじ),梵字(ぼろんじ),暮露(ぼろ),また普化僧(ふけそう)ともいう。禅宗の一派である普化宗の僧の別称で,普化宗を虚無宗とも称する。吉田兼好の《徒然草(つれづれぐさ)》に,〈ぼろぼろ〉〈ぼろんじ〉と見え,我執深く闘争を事にする卑徒としている。《三十二番職人歌合》は,尺八を吹いて門戸にたち托鉢(たくはつ)することをもっぱらの業としたとする。普化宗は,中国唐代の鎮州普化を祖とし,日本には無本覚心(むほんかくしん)(法灯国師(ほつとうこくし))が伝えた。覚心は,1249年(建長1)入宋し杭州(浙江省)霊洞護国寺の無門慧開に参じたが,そこで普化和尚の法流にある張参と親交し,竹管吹簫の秘奥を稟(う)け1254年の帰朝時に張参の徒宝伏(法普)ら4居士(こじ)を伴い,開創寺の興国寺(和歌山県由良)に普化庵を設けた。その派徒から室町期に朗庵(風穴道者)と称する者がでて普化宗がさかえたといわれる。また宝伏の法を継いだ金先(下総小金,一月寺開祖)が尺八を法器とし薦僧のもととなったともいわれる。薦僧を虚無僧と表すようになったのは,世は虚仮で実体がないと観じ心を虚にするという考え方によるとか,また覚心の一系に虚無と称する者がでて服装や吹曲を整え形式を確立したことによるなど諸説がある。様相は,はじめ普通の編笠をかぶり,白衣を着ていたが,江戸時代には天蓋(てんがい)と称する筒形の深編笠をかぶり,黒衣に絡子(らくす)をかけ,丸ぐけ帯をしめ,手甲(てつこう),脚絆(きやはん)をつけ,下駄をはき,木太刀をもつ伊達(だて)姿となっている。また虚無僧の普化宗は,金先(靳詮)派,活総(火下)派,小笹(司祖)派,小菊(夏漂)派など諸派を形成し,それら諸派のうち七派だけでも幕末に92ヵ寺を数え,下総の一月寺と武蔵の鈴法寺および京都明暗寺が普化宗本寺触頭として統轄した。1614年(慶長19)の虚無僧掟書によると,武者修行の宗門と心得て全国に自由往来することが許可されている。特別の扱いをうけているが浪人取締りの手段としている。江戸中期以降には遊蕩無頼の徒が虚無僧姿になり横行したため,幕府は天蓋の販売規制をするなど取締りをしている。1871年普化宗廃止の太政官達で虚無僧は民籍に編入された。1888年京都の善慧院明暗教会が設立されて虚無僧行脚が復活し,ついで興国寺に普化教会,京都鳴滝妙光寺に法灯教会が設立された。現在,明暗寺の明暗教会,興国寺の法灯会などがある。
普化宗
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「虚無僧」の意味・わかりやすい解説

虚無僧
こむそう

尺八を吹きながら家々を回り、托鉢(たくはつ)を受ける僧。薦(こも)僧、菰(こも)僧というのが本来の呼び名で、諸国を行脚(あんぎゃ)して遊行(ゆぎょう)の生活を送り、雨露をしのぐために菰を持ち歩いたからである。ぼろを身にまとって物乞(ものご)いしたので、暮露(ぼろ)とも梵論字(ぼろんじ)(梵論師)ともよばれた。普化(ふけ)僧ともいう。普化宗は禅宗の一派で、中国の唐代の普化和尚(おしょう)を始祖とし、法燈(ほっとう)国師覚心(かくしん)が宋(そう)から日本に伝来したという。覚心は紀伊国(和歌山県)に興国寺を開山し、宗旨も広まり多くの流派ができた。

 虚無僧寺としては、京都の明暗寺、下総(しもうさ)小金(こがね)(千葉県松戸市)の一月寺(いちがつじ)、武蔵(むさし)青梅(おうめ)(東京都青梅市)の鈴法寺(れいほうじ)などが著名であった。普化宗では、心を虚(むな)しくして尺八を吹き、虚無吹断を禅の至境とした。近世初期には武士以外の入宗(にっそう)を認めず、また幕府も自由の旅を許すなどの特典を与えたが、浪人や無頼の徒が身を隠す手段に利用し、乱暴をはたらくなどの弊害が続出した。普化宗は1871年(明治4)に廃宗となり、1888年に京都に明暗教会が設立されたが、虚無僧は宗教から離れ、尺八修業の方便か物乞いの手段かになって影を潜めた。僧とはいいながら半僧半俗で、多くは有髪(うはつ)で、天蓋(てんがい)と称する深編笠(ふかあみがさ)をかぶり、着流しで、首から袈裟(けさ)と頭陀袋(ずだぶくろ)をかけた。手甲(てっこう)・脚絆(きゃはん)なども着けた。古くは草鞋(わらじ)を履いたが、江戸時代の中ごろから高下駄(たかげた)を履くようになった。出没自在、腕のたつこと、無頼性など、不思議な魅力をもつところから、時代劇では善玉としても悪玉としても、しばしば脇役(わきやく)として登場する。

[井之口章次]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「虚無僧」の意味・わかりやすい解説

虚無僧
こむそう

尺八を吹いて物ごいをする僧。薦 (こも) 僧,ぼろんじ,暮露 (ぼろ) ,ぼろぼろともいう。初めは薦をたずさえて流浪する者の称であったと思われる。鎌倉時代,中国普化 (ふけ) 宗の流れをくむ日本の天外明普が虚無宗を開き (永仁年間) ,京都白川で門弟を教導し,尺八吹奏による禅を鼓吹したのに始る。世は虚仮で実体がないと知り,心を虚しくすることからその名があるという。江戸では青梅の鈴江寺,下総小金の一月寺,京都では明暗寺に属し,天蓋 (編笠) をかぶり袈裟を着け尺八を吹いて托鉢して回った。仇討ちの浪人や密偵などが世を忍んで虚無僧となった者も多い。百姓,町人はなれないなどの規則もあったが,のち門付け芸人ともなった。江戸時代中期頃から,尺八を得意とする者で,派手な姿で伊達 (だて) 虚無僧となった者もある。

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百科事典マイペディア 「虚無僧」の意味・わかりやすい解説

虚無僧【こむそう】

薦(菰)僧(こもそう),普化僧(ふけそう)とも。禅宗の一派普化宗の僧侶。多くは有髪で,僧衣はつけず袈裟(けさ)をかけ,深編笠をかぶり,尺八を吹いて布施(ふせ)を請うてまわった。《徒然草》にみえる〈ぼろ〉〈ぼろぼろ〉はこの虚無僧といわれ,その頃から活躍し,1871年の普化宗廃止後は急減した。

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歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典 「虚無僧」の解説

虚無僧
〔長唄〕
こむそう

歌舞伎・浄瑠璃の外題。
演者
杵屋作十郎(1代)
初演
明和7.3(江戸・市村座)

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世界大百科事典(旧版)内の虚無僧の言及

【普化宗】より

…そのうち,一月寺と鈴法寺が触頭に指定されて関東地域の諸派寺院を統括し,関西地方は京都の明暗寺などがその任にあたった。 普化宗は江戸幕府との関係が密接で,1614年普化宗の僧徒である虚無僧は,勇士浪人の一時の隠れ家であるとなし,虚無僧取立ては武士に限るとするなどの掟書を出し,武門の正道を失うことなく,武者修行の宗門であると規定していて,幕府の浪人取締策として普化宗を公認するという側面をもったが,しだいに復讐や仕官を目的とする者や無頼の徒がふえたため,その悪行を禁令によって厳しく取り締まっている。宗徒となるときは入宗証文を提示し,宗門に帰依する趣旨をいい,弟子となることを誓約するなどし,その後住持から尺八や天蓋(てんがい)が手渡された。…

※「虚無僧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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