荻村(読み)おぎむら

日本歴史地名大系 「荻村」の解説

荻村
おぎむら

[現在地名]南陽市荻

白鷹しらたか山塊を南下する吉野よしの川上流部、小滝こたき街道に沿う。天明年間(一七八一―八九)の分村までは荻村・下荻村・太郎たろう村は荻村として一つにまとまっていた。小滝街道米沢街道の脇街道として利用された。距離もわずかに短く、峠もそれほど険しくなく運賃も安かったため、山形・米沢間の商業道路・生活道路であった。上杉氏の米沢移封直後は当村中ほどのさか町に足軽集団が配置された。元和九年(一六二三)の古図(川合家蔵)および寛永二〇年(一六四三)の人名簿(川合文書)によるとそれぞれ一〇戸がみられる。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高四二七石余、免三ツ四分、家数五九(うち役家三〇、肝煎・小走五)、人数三一八、役木として漆・桑・紅花・青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は上。寛永一五年の検地帳(川合文書)では九三三石余で、邑鑑の二倍以上に増加している。上杉領村目録には上荻村とあり、高六一三石余、本免二ツ五分。


荻村
おぎむら

[現在地名]幸田町荻

村域の東半分は山で山麓不動ふどうヶ池と稲基いなぎ池がある。遠峰とぼね山を水源とする尾浜おばま川沿いに集落が集中する。東は宝飯ほい柏原かしわばら(現蒲郡市)と山で、西は耕地で横落よこおち村・芦谷あしのや村と接する。南は山地と一部耕地で芦谷村、北は山地と一部耕地で大草おおくさ村と接する。芦谷村から当村を通り大草村に至る桑谷くわがい道が貫く。柏原村に坂野さかの峠を越えて通る西郡にしのごおり道もある。村域西部に小字として城跡しろあと、北部山麓にじよういりの地名が残るが城主は不明。

中世、宝飯郡に属し、上之郷かみのごう(現蒲郡市)城主鵜殿一族の支配が永禄六年(一五六三)まで続く。天正一八年(一五九〇)吉田よしだ(現豊橋市)城主池田輝政領、慶長六年(一六〇一)形原かたのはら(現蒲郡市)松平家信知行所。


荻村
おぎむら

[現在地名]伊東市荻

山間の小盆地で北はおか村。元禄郷帳によると高五二石余。初め幕府領、延宝九年(一六八一)相模小田原藩領、天明五年(一七八五)幕府領、文政五年(一八二二)駿河沼津藩領となり幕末に至る(韮山町史)。宝永七年(一七一〇)の小田原領村々諸事覚控帳(荻野家文書)によれば家数三五・人数二二三、馬二一・牛八、茶畑運上米一斗六合。天明五年の荻村明細帳控(太田家文書)では家数三七(うち無田七)・人数一三九、馬七・牛五。


荻村
おぎむら

[現在地名]瀬戸田町荻

生口いくち島の南西部、宮原みやばら村の西南に位置し、南は伯方の瀬戸はかたのせとを隔てて伊予国伯方(現愛媛県越智郡伯方町)に対峙する。正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」に村高一五一・三四石が記され、以後の変化はない。「芸藩通志」は畝高一七町二反三畝余、戸数一四〇・人口六九八、牛六三、船三六(五〇石以下)を記す。


荻村
おぎむら

[現在地名]温泉津町井田いだ大字荻村

飯原はんばら西田にした両村の南、江川支流の都治つち川上流域の三子みつご(五八七・二メートル)一帯を占める山間村。正保国絵図に荻村とみえ、高三三六石余。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方二五〇石余・畑方八六石余、年貢高は米一六五石余・銀七〇六匁余、小物成は藪役銀一七匁余、家数は本家五三・門屋三六、人数二三三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android