日本歴史地名大系 「伊東市」の解説 伊東市いとうし 面積:一二四・一二平方キロ伊東の地名は伊豆の東に由来するといわれるとおり、伊豆半島東部に位置して相模灘に面し、北は熱海市、南は賀茂(かも)郡東伊豆町、西は田方(たがた)郡大仁(おおひと)町・中伊豆町に接する。西は箱根(はこね)山系とそれに続く天城(あまぎ)山系によって伊豆半島中央部の田方平野と分たれ、標高四〇〇メートル前後の峠により中伊豆町・大仁町のほか同郡修善寺(しゆぜんじ)町・韮山(にらやま)町とも結ばれている。市域の中心部をなす旧伊東町地域は伊東大川(通称松川)の沖積平野を中心に成り立ち、その北に小河川によってつくられた宇佐美(うさみ)平野がある。南部地域は東伊豆単成火山群の噴出物に覆われた台地で、小集落が点在していたが、昭和三〇年代以後集落の境界を越えて伊豆高原(いずこうげん)・大室高原(おおむろこうげん)などとよばれる居住地になりつつある。海岸近くを国道一三五号が通り、JR伊東線に接続して伊豆急行が下田方面に向かう。市域の大部分が富士箱根伊豆国立公園に指定される。〔原始・古代〕音無(おとなし)町の生涯学習センター中央会館一帯は昭和一三年(一九三八)に調査され、縄文時代早期(形成期)を中心とした土器類が多量に発見され注目された(上の坊遺跡)。多くの土器型式が確認され、伊豆の縄文時代研究を大いに進展させたが、昭和の後半に同遺跡の土器の一部を標式として上の坊式土器も設定されている。同じ形成期の遺跡として富戸(ふと)のクズレ遺跡も住居跡など多くの情報を提供している。古墳時代の遺跡は七ヵ所知られ、竹(たけ)の台(だい)遺跡からは「田」文字の墨書土器が出土している。古墳も円墳三基・横穴墓七基がある。井戸川(いどがわ)遺跡から県下では例の少ない和同開珎が発見された。「伊豆国風土記」逸文(鎌倉実記)によると、興野の神猟は毎年当番の国が奉仕したとされ、夏野の猟競べは伊東・興野で行われたという。「延喜式」神名帳に記載される田方郡「久豆弥(クツミノ)神社」「加理波夜須多比波預(カリハヤスタキヒハヨノ)命神社」「引手力命神社」(タチカラノ、ヒキタチカラノ)はそれぞれ岡(おか)の葛見(くずみ)神社、宇佐美の比波預(ひはよ)天神社、十足(とおたり)の引手力男(ひくたぢからお)神社に、賀茂郡「伊波久良和気(イハクラワケノ)命神社」は八幡野(やわたの)の八幡宮来宮(きのみや)神社に比定される。「和名抄」所載の郷名で田方郡有雑(うさい)郷は宇佐美に、久(くずみ)郷は葛見に比定されるが問題が残されている。平安末期には伊東庄(郷)や宇佐美庄(郷)が成立していた。伊東庄は葛見庄とも称され、庄域は伊東市を中心に熱海市や中伊豆町まで及んだ。〔中世〕「曾我物語」には「伊豆国伊東・河津・宇佐美、この三ケ所をふさねて、美庄と号する」とある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「伊東市」の意味・わかりやすい解説 伊東〔市〕いとう 静岡県東部,伊豆半島東海岸にある市。 1947年市制。 55年宇佐見,対馬の2村を編入。北部の宇佐美地区は安山岩類が浸食された標高約 500mの山地,南部は先原の溶岩台地と天城火山東部の地域を含む。中心市街地は沖積地に発達。江戸初期に猪戸,松原,和田の3湯が発見され,末期に初めて温泉街ができた (→伊東温泉 ) 。大正末期から昭和初期にかけて熱海-下田間のバス開通,38年伊東線の開通で飛躍的に発展。 61年伊豆急行が下田まで延長され,奥伊豆への観光基地となった。伊東港は近海漁業の中心地。付近の山腹にはミカン園が多い。大室山,一碧湖,城ヶ崎などの景勝地や源頼朝が伊東祐親の娘八重姫と忍んで会ったといわれる音無神社,熱帯魚のすむ浄ノ池,日本最初の洋式帆船を建造した三浦按針 (ウィリアム・アダムズ ) の碑などがある。葛見神社の大クス,八幡野八幡宮および来宮神社の社叢はともに天然記念物。市域の一部は富士箱根伊豆国立公園に属する。国道 135号線が通じる。面積 124.10km2。人口 6万5491(2020)。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by