改訂新版 世界大百科事典 「華北工作」の意味・わかりやすい解説
華北工作 (かほくこうさく)
日本が満州事変を起こして中国の東北4省を占領したのち,これに接する河北省(冀),察哈爾(チヤハル)省(察)をはじめ山東,山西,綏遠(すいえん)の華北5省を中国国民政府から切り離し日本の支配下におこうとした工作。〈満州国〉の抗日運動を孤立させ,対ソ戦に備えて軍事基地を確保し,あわせて鉄,綿花など重要資源に富む華北を日本の経済ブロックにとりこもうというねらいがあった。この華北分離工作は1935年から日本の出先軍によって高圧的に推進され,中国の抗日救国運動をひろげ,日中戦争をひきおこした。
1933年5月の塘沽(タンクー)停戦協定で日本軍は河北省北東部に非武装地帯を作らせ監視権を認めさせたが,これが華北工作の足がかりとなった。国民政府による中国統一を嫌う日本陸軍の支那駐屯軍は,35年6月には排日運動を理由に梅津・何応欽協定を強要し,国民党部,中央軍と東北系軍隊を河北省から撤退させた。察哈爾省でも関東軍が同様の処置をとらせた(土肥原・秦徳純協定)。中国は外交交渉を求めたが,広田弘毅外相は停戦協定にもとづく軍事行動だとして応ぜず,軍部の二重外交を是認した。国民政府は屈して排日運動取締りの命令を出した。しかしこれに対して東北の抗日遊撃隊の全指導者は統一的な抗日政府の樹立を呼びかけ,大西遷途上の中国共産党が八・一宣言を出すなど抗日救国の動きが起こった。11月には親日派の汪兆銘外交部長が狙撃されて下野し,その直後に国民政府はイギリス人財政家リース・ロスF.W.Leith-Rossの援助で幣制改革を成功させ,中国の経済的統一を促進した。日本軍は華北の軍閥をとりこもうとしたが成功せず,悪評高い殷汝耕を主席に11月に非武装地帯を中心に冀東防共自治委員会(12月,冀東防共自治政府と改称)を作らせた。国民政府は殷を国賊として逮捕令を出したが,日本との衝突をさけるため12月に河北・察哈爾両省と北平(北京),天津両市を管轄する冀察政務委員会を作り,第29軍長の宋哲元を委員長とした。しかし北平の学生たちは華北分離に反対する一二・九運動を起こし,抗日救国運動を各界に広げた。36年2月には陝西省に根拠地を作った共産軍が山西省に進出して〈内戦停止,一致抗日〉を呼びかけた。日本は排日停止,満州国承認,共同防共のいわゆる広田三原則を中国に要求していたが,5月には支那駐屯軍を一方的に増強した。冀東防共自治政府は2月から正規関税の1/4の手数料をとっていわゆる冀東密貿易を公認し,日本軍はこれから工作費を吸い上げた。同地方は日本の密輸商人らが横行する無法地帯となり,中国の民族産業は打撃をうけた。中国の抗日の気運は高まり,綏遠事件,青島在華紡ストをへて12月の西安事件で内戦停止,国共合作への道が開かれた。日本でも中国再認識論が起こり,林銑十郎内閣の佐藤尚武外相は平等互恵の立場から国交改善をはかると言明し,陸軍参謀本部の石原莞爾作戦部長も華北分治政策を抑え華北経済開発を優先させる方針をとった。だがこれも軍事色の濃いものだけに中国側の抵抗で難航すると,強硬論がもり返した。そして近衛文麿内閣が成立し広田外相が再任されてまもなく,蘆溝橋事件をきっかけに日本は中国との全面戦争へとつきすすんだ。
執筆者:今井 清一
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