在華紡(読み)ざいかぼう

改訂新版 世界大百科事典 「在華紡」の意味・わかりやすい解説

在華紡 (ざいかぼう)

中国において日本資本が経営した紡績業三井物産上海支店が1902年興泰紗厰買収を主導してこれを上海紡績に改組し,その経営を引き受けたのをはじめとして,11年にはやはり商社内外綿会社が上海に工場を建設して進出した。第1次世界大戦で巨額の利潤を蓄積した紡績会社は,賃金コスト上昇による太糸輸出の困難化という状況の下で,19年の中国綿糸布輸入関税引上げと国際労働機関(ILO)による深夜業禁止の不可避化とを契機に,大日本紡績東洋紡績(のち裕豊紡績として独立),鐘淵紡績(子会社上海製造絹糸)などの有力各社が相次いで上海,青島に進出した。在華紡は早くも25年に100万錘を突破し(日本国内の約4分の1,中国の38%),その投資額は30年現在1億8332万円と推定され,〈満州〉を除く中国関内への直接事業投資の29%を占めた。しかも紡績業に生じた過剰資本の輸出である点で,帝国主義段階に本来的な性格を持つものであった。在華紡は,イギリス式の買弁による作業請負や中国式の労働ボス(工頭)を介した請負雇用ではなく,技術・管理ともに日本の方式を可能なかぎり持ち込んで,中国人労働者を日本の半額程度の低賃金で使用した。また資金の豊富さや,強力な売買網を持つ日本の大商社との連携という点でも,民族資本に対して優位にあった。23年の旅大回収運動において在華紡製品は日貨排斥の対象とされ,以後,在華紡は日中間の対立を激成する舞台となった。25年の五・三〇運動も上海在華紡ストに端を発したものであった。しかし在華紡は,中国の関税自主権回復にともなう綿製品輸入減少の下で,細糸,綿布,加工綿布をも含めて中国市場における支配的地位を築き上げ,さらに日本軍の華北進出に呼応して天津にも進出した。日中戦争開始によって,在華紡は青島全設備の爆破などの被害を受けたものの,日本軍の接収した民族資本紡績工場を委任経営して中国紡績業を支配した。日本の敗戦によりその全設備を中国側に接収され,革命後,その多くは中華人民共和国の国営工場となった。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「在華紡」の意味・わかりやすい解説

在華紡
ざいかぼう

中国において日本資本が経営した紡績業。三井物産が1902年(明治35)上海(シャンハイ)紡績会社に一部出資してその経営を引き受けたのが最初で、11年にはやはり商社の内外綿が上海に工場を建設した。第一次世界大戦で巨額の利潤を蓄積した紡績会社は、賃金コスト上昇による綿糸輸出の困難化という情勢の下で、大日本紡、東洋紡(のち裕豊(ゆうほう)紡として独立)、鐘淵(かねがふち)紡(子会社上海製造絹糸)など有力各社が相次いで上海、青島(チンタオ)に進出した。在華紡投資額は、「満州」を除く中国関内への直接事業投資の29%を占めるに至った(1930)。在華紡は日本式経営を持ち込んで民族資本紡を圧倒したが、25年(大正14)の五・三〇事件などでは排日運動の標的となった。30年代には日本軍の華北進出に呼応して天津(てんしん/ティエンチン)にも進出し、日中戦争が始まると、日本軍の接収した民族資本紡の経営をも引き受けて中国綿業を支配したが、敗戦によって全設備を中国側に接収されて消滅した。

[高村直助]

『高村直助著『近代日本綿業と中国』(1982・東京大学出版会)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「在華紡」の意味・わかりやすい解説

在華紡
ざいかぼう

日露戦争後本格化した日本の海外投資の中心的存在で,在中国の紡績工業。日本の在華紡の始りは 1909年内外綿株式会社の上海進出であるが,上海紡績,日華紡織がそれに続き,さらに東洋紡,富士紡,鐘紡などが次々に進出。 20年までは3社 10工場でその錘数は 40万錘にすぎなかったが,22年には 100万錘,25年には 120万錘をこえるにいたり,その急成長はイギリス人紡や中国人紡をしのいだ。しかし低賃金,関税諸掛の減免,市場の独占によって高い利潤をあげていた在華紡も,45年の敗戦とともに接収され,その工場はいまでは中国国営工場になっている。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「在華紡」の解説

在華紡
ざいかぼう

中国に展開された日本資本による紡績業。1902年(明治35)から三井物産・日本綿花・内外綿などが中国での紡績経営に乗りだし,第1次大戦後,対中輸出の減少に対処するため,東洋紡績・鐘淵紡績・大日本紡績などの各社も中国に進出。巨額な事業投資と大商社との連携で,中国の民族資本紡績に対し優位にたった。在華紡は上海・青島(チンタオ)・天津に多く,5・30事件のような反日運動の舞台ともなった。敗戦後,設備などを中国側に接収された。

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百科事典マイペディア 「在華紡」の意味・わかりやすい解説

在華紡【ざいかぼう】

日本の紡績資本が中国各地に建設した紡績工場。第1次大戦を契機に上海(シャンハイ)・青島(チンタオ)・天津(テンシン)などに建設,大正末期には15社を数えた。

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世界大百科事典(旧版)内の在華紡の言及

【繊維工業】より

…大手会社では大戦中に得た資本蓄積をさまざまな形で投資した。まず第1に,生産コストの低い中国への資本進出を行い,現地紡績会社(在華紡)を設立した。第2に,新鋭機械の導入や作業の標準化による生産合理化,あるいは安価な綿花の大量買付けや混綿操作などを通して,生産コストを引き下げた。…

【紡績業】より

…大紡績は21年末以降5年余の間,中小紡績会社の要請にもかかわらず操短を行わせず業界の整理を図り,1920年代の買収・合併・解散・減資社数は40を超えた。 第1次大戦を契機とする賃金上昇の結果,賃金コストが上昇して太糸の輸出競争力が低下すると,大紡績を中心とする有力紡績会社は,中国に資本を輸出して紡績業を営む(在華紡)とともに,国内では細糸・綿布・加工綿布の生産増強に努め,さらに豊富な資金力をもって人絹工業などにも進出した。1929年7月からの工場法改正による深夜業(夜10時~朝5時)の禁止が迫ると,〈標準動作〉の採用,電動機・ハイドラフト紡績機・自動織機など最新設備の導入によって合理化を進め,昭和恐慌を機に人員整理と賃金引下げを断行してコスト低下を実現した。…

※「在華紡」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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