ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「一二・九運動」の意味・わかりやすい解説
一二・九運動
いちに・きゅううんどう
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1935年12月9日、中国、北京(ペキン)で起こり、その後全国に波及した学生の抗日救国運動。中国の東北地方に「満州国」をつくった日本は、侵略の手を華北にも伸ばして、1935年になると国民政府に対し、河北、察哈爾(チャハル)両省からの中央軍の撤退を強要する一方、河北省東部に傀儡(かいらい)政権、冀東(きとう)防共自治政府をつくった。ところが国民政府は日本の意をいれて北京に冀察(きさつ)政務委員会を組織して事態を糊塗(こと)したうえ、抗日運動弾圧を強化した。このように「先安内後攘外」(国内平定が先決、外敵は後回し)という方針で中共地区攻撃に専念する国民政府に反対し、抗日民族統一戦線結成を説く中共の方針に共感を示した学生たちは、12月9日、北京で大規模な請願デモを起こし、冀察政務委員会の成立を延期させた。さらに学生たちは南下拡大宣伝団を組織し、農村への「下郷(かきょう)運動」によって影響を広めた。また上海(シャンハイ)その他にも波及し、各界人士による抗日救国会運動展開の契機ともなり、1937年7月に始まる抗日全面戦争前夜の、抗日民族統一戦線結成に大きな役割を果たす運動となった。
[安藤彦太郎]
中国で1935年12月9日,日本の侵略に対して,北平(北京)の学生を中心として行われた示威運動。日本軍は1933年以来華北で侵略行動と自治工作をすすめたが,国民政府はそれに対して妥協をかさね,民衆の抗日運動を弾圧した。12月9日の運動はこうした国民政府への抗議と抗日宣伝を目的としたもので,当局の弾圧を契機として運動は全国的な抗日運動へと発展していった。
執筆者:川井 悟
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
1935年12月9日に北平(北京)の学生が中心になって起こした日本に対する抗議運動。日本軍は35年に入ると華北への影響力拡大を一層強化し,11月には河北省東部に冀東(きとう)防共自治委員会を成立させて,華北分離工作を進めた。これに対し,中国の国内世論は強い抵抗を示した。この運動は,抗日救国運動を高め,西安事件勃発の契機となった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新