日本大百科全書(ニッポニカ) 「萬朝報」の意味・わかりやすい解説
萬朝報(よろずちょうほう)
よろずちょうほう
明治・大正期の有力新聞。1892年(明治25)11月1日、黒岩涙香(るいこう)(周六)が東京で創刊した日刊紙。「簡単、明瞭(めいりょう)、痛快」をモットーに、黒岩の翻案小説、名士の私行摘発(蓄妾(ちくしょう)実例暴露など)とキャンペーン(相馬(そうま)家の御家騒動、蓮門(れんもん)教攻撃など)で大衆の関心を集め、低価格政策と相まって、東京第一の発行部数を獲得した。日露開戦の気運が高まると、内村鑑三(かんぞう)、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)、堺利彦(さかいとしひこ)らが非戦論を展開、注目を集めたが、1903年(明治36)秋になって開戦気運が濃くなると『萬朝報』も開戦論に転向、内村、幸徳、堺は10月9日社を去った(12日掲載の3名の「退社の辞」は有名)。
このころから黒岩は「英文欄」を新設、趣味、文芸、科学、思想記事など豊富に掲載したため、学生間に人気を集め、読者を増やした。大正に入り、憲政擁護運動、シーメンス事件などで反藩閥の鋭い論調を張るが、1920年(大正9)10月、黒岩が亡くなり、23年9月の関東大震災で被災してから急速に勢威を失い、昭和に入ると経営者の交替、社内の分裂相次ぎ、40年(昭和15)10月、戦時新聞整備計画もあって廃刊した。
[春原昭彦]
『萬朝報刊行会編『萬朝報』(第一期1983~86、第二期1987~ ・日本図書センター)』