大本教(読み)オオモトキョウ

デジタル大辞泉 「大本教」の意味・読み・例文・類語

おおもと‐きょう〔おほもとケウ〕【大本教】

明治末、出口ナオ教祖として出口王仁三郎でくちおにさぶろうが組織した神道系の新宗教ナオの「筆先」によるうしとら金神こんじん世直しを唱えて、「みろくの世」(神の国)の到来を説いた。大正10年(1921)・昭和10年(1935)の二度の弾圧を受けた。第二次大戦後、愛善苑として再出発したが、正式名称は大本。京都府亀岡市に本部を置く。

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精選版 日本国語大辞典 「大本教」の意味・読み・例文・類語

おおもと‐きょうおほもとケウ【大本教】

  1. 〘 名詞 〙 神道的宗教の一派。明治二五年(一八九二)、出口なおによっておこり、養子出口王仁三郎(おにさぶろう)によって組織された。本部を京都府綾部に置き、本尊を大本皇大御神(艮金神(うしとらのこんじん))とし、世の「立て替え直し」を志して、鎮魂帰神を唱えた。昭和一〇年(一九三五)弾圧され、翌年解散。同二二年大本愛善苑として新発足し、のち旧称に復す。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大本教」の意味・わかりやすい解説

大本教
おおもときょう

習合神道系の新宗教。出口(でぐち)ナオとその女婿出口王仁三郎(おにさぶろう)を教祖とする。1892年(明治25)京都府綾部(あやべ)で、貧しい大工の未亡人出口ナオが神がかりして開いた。ナオは、自己にかかった「艮(うしとら)の金神(こんじん)」による世の立替え立直しを訴え、理想世界の「みろくの世」の到来を説いて、「筆先(ふでさき)」を書き続けた。ナオは初め金光教(こんこうきょう)に属し、病気治しを通じて布教したが、1899年上田喜三郎(のち出口王仁三郎)を迎えて金明(きんめい)霊学会をつくり、習合神道系の教義を整えた。王仁三郎は、京都府亀岡近郊の貧農の出身で、郷里の霊山高熊山に籠(こも)って修行し、霊力による病気治しを始めた。のち静岡県清水(しみず)の稲荷(いなり)講社に属して皇道霊学会をつくり、布教していたが、1900年(明治33)綾部に移って、ナオの五女すみ(1883―1952)と結婚した。王仁三郎はナオと対立して、綾部を去り、京都で神職となったが、衰えた教勢を回復するために綾部に戻り、1908年大日本修斎会をつくった。同会は病気治し、予言、集団的神がかり修行の鎮魂帰神などを駆使して全国的に教勢を拡大した。1916年(大正5)教名を皇道大本と改め、第一次世界大戦中から戦後に、英文学者の浅野和三郎(わさぶろう)(1874―1937)らの指導で、大正維新による神政実現を呼びかけ、知識層、軍人の入信が続いた。1921年不敬罪、新聞紙法違反で第一次の弾圧を受け、方向転換を余儀なくされた。王仁三郎は新教典『霊界物語』を述作し、霊主体従、万教同根を説いて、弾圧前の世直し的な教義を後退させ観念化した。またエスペラントを採用して国際的活動に乗り出し、中国の宗教慈善団体の道院・紅卍字会(こうまんじかい)と提携し、1925年人類愛善会を設立した。翌1926年、亀岡に天恩郷を建設して本部を置き、綾部の梅松苑とともに聖地とした。1934年(昭和9)政治団体の昭和神聖会を結成し、下からのファシズム運動を展開したが、天皇制と相いれない異端的な教義のため危険視され、1935年不敬罪、治安維持法違反で第二次の弾圧を受けた。大本教は禁止され施設は徹底的に破壊された。王仁三郎は6年余の獄中生活ののち、太平洋戦争中に保釈出所したが、ひそかに反戦平和を説き、陶芸に晩年の情熱を注いだ。戦後、1946年(昭和21)教団は愛善苑の教名で再発足し、1952年「大本」の教名に復した。この間、1949年に人類愛善会が再建され、世界連邦運動、宗教平和運動を展開した。なお、大本教から分立した宗教には神道天行居(てんこうきょ)、生長の家、世界救世教、三五(あなない)教、璽宇(じう)教(璽光尊(じこうそん))などがある。本部は京都府亀岡市荒塚町。教会数649、布教所数112、教師数4825、信者数16万8969(『宗教年鑑』平成26年版)。

村上重良

『大本七十年史編纂会編『大本七十年史』全2巻(1964、67・宗教法人大本)』『村上重良評伝『出口王仁三郎』(1978・三省堂)』

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改訂新版 世界大百科事典 「大本教」の意味・わかりやすい解説

大本教 (おおもときょう)

京都府綾部市に本部を置く神道系の宗教。教祖出口なおは1836年(天保7)丹波国(京都府)の大工の長女として生まれ,のち出口家の養女となって,大工の夫を婿に迎えた。夫の放蕩で家財いっさいを失い,ついにはぼろ買いをするほどの生活苦を体験した。1890年三女が発狂し,その際金光(こんこう)教の布教師の祈禱によって正気にもどるというご利益があらわれたのを機に金光教に深く帰依するようになる。さらに長女が発狂してまもない92年1月5日,なおは突然神がかりし,〈三千世界一度に開く梅の花,艮(うしとら)の金神の世になりたぞよ〉と口走り,世の中の立直しを叫んだ。なおは病気治しを中心に宗教活動をすすめ,そのなかで,大本教の教義の原典ともいうべき〈筆先〉の執筆にあたった。94年,なおは金光教の布教師となり,いわば金光教の軒を借りて布教活動をつづけたが,のちに決別して,大本教を独立させた。98年,なおは稲荷講社で霊学や神がかりの行法を学んだ上田喜三郎(のちの王仁三郎(おにさぶろう))とめぐり会った。王仁三郎は翌年には稲荷講社所属の金明霊学会をつくり,非公認の大本教を権力や社会の弾圧から合法的に救うことになった。そのうえ神の言葉を理論化する能力をもつ王仁三郎はなおの信頼を得,1900年にはなおの後継者五女すみと結婚。これ以後大本教は出口王仁三郎によって教義の体系化,組織化が進められ,聖師と呼ばれた彼の指導力が発揮されることになる。王仁三郎は戦争によってさらに富を増大していく資本家・地主といった人々に激しい憤りを燃やし,日本人の大多数を占める庶民を不幸に追いやる戦争を強く否定しつづけた。

 金明霊学会はやがて大日本修斎会へと発展し,16年には皇道大本と教団名を改称しつつ,多くの信者を獲得した。18年教祖出口なおは世を去ったが,五女すみが2代教主となり,王仁三郎が教団の指導者となって教団の運営がすすめられた。翌年に京都府亀岡の亀岡城址を入手し,布教の拠点である本部とした。さらに大阪の新聞社を買収して,マスコミを使って大本教の宣伝,布教を展開した。だが21年,大本教は政治権力からの弾圧をうけた(第1次弾圧)。それによって多数の幹部が不敬罪,新聞紙法違反等で起訴され,なおの墓は天皇の陵に類し不敬であるとの理由から破壊された。35年大本教は再び政治権力からの弾圧を体験した。このときも多数の幹部が検挙され,大本教の綾部と亀岡にある本部施設のほとんどがダイナマイトで爆破された(第2次弾圧)。権力による2度にわたる苛烈な弾圧をうけながらも,大本教は反権力思想をかかげ,戦争反対を叫びつづけた。第2次大戦後の46年,大本教は王仁三郎を苑主とし愛善苑として出発し,その後も一貫して戦争反対を叫び,平和運動を展開しつづけた。現在は大本と称している。
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百科事典マイペディア 「大本教」の意味・わかりやすい解説

大本教【おおもときょう】

1892年に開教した教派神道系に属する宗教。開祖出口(でぐち)なお〔1836-1918〕は丹波福知山城下に出生,1853年丹波綾部郷(現京都府綾部市)の叔母出口ゆりの養女となり,1855年婿養子を迎えて出口家を継いだ。1892年突然神がかりし,数千冊にのぼる〈お筆先〉を筆記(のち《大本神諭》としてまとめられた)。1908年出口王仁(おに)三郎がなおの末娘すみ(2代教祖)の婿となり,教団の組織と教義の展開に努力。艮(うしとら)の金神(こんじん)を世のたてかえ,たてなおしの真神であるとし,鎮魂帰神という神がかりの法を行い,大新聞や雑誌を買収し,知識人を加入させたりして宣伝,第1次大戦中に大発展を遂げた。しかし,1921年,1935年に弾圧をうけ(大本教弾圧事件),ほとんど壊滅。戦後愛善苑(あいぜんえん)として復活し,1952年名称を〈大本〉と改称。本部は綾部市の梅松苑(祭祀の場)と亀岡市の天恩郷(宣教の場)に分かれている。教会・布教所933,信徒数17万2460人(1990)。
→関連項目綾部[市]亀岡[市]紅卍字会金神璽宇教新宗教生長の家世界救世教

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「大本教」の解説

大本教
おおもときょう

出口なおを開祖,出口王仁三郎(おにさぶろう)(上田喜三郎)を聖師として成立した新興宗教。なおは1892年(明治25)神がかり状態になったことを契機に翌々年より金光教と合同で布教を開始した。霊学・霊術に詳しい上田喜三郎は,なおの五女すみと結婚したことから教団の組織化に加わり,金明霊学会を京都府綾部に結成。のち組織は大日本修斎会をへて1913年(大正2)大本教と改称。なおのお筆先(おふでさき)や王仁三郎の「霊界物語」を教典として地上天国の形成を主張した。信者には海軍士官学校関係者などもいたが,18年のなおの死後分裂をくり返し,2回にわたる弾圧もうけた。19年以降は亀岡を本部とし,第2次大戦後は世界平和を主張。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「大本教」の意味・わかりやすい解説

大本教
おおもときょう

神道系の新宗教。出口なおにより 1892年に創唱された。その予言は御筆先 (おふでさき。大本神諭) として記された。大本皇大御神を祀り,なおの出生地たる丹波国綾部を地上の高天原とし,神人合感を唱え,世を立直して,神の国を開くと説く。なおの死後,出口王仁三郎,すみの両人により,鎮魂帰神法が唱えられ,綾部に本部,亀岡に道場がおかれ,大きく発展したが,1921,35年の2回の不敬罪による弾圧を受け,解散させられた。第2次世界大戦後愛善苑として再建され,52年大本教に復した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「大本教」の解説

大本教
おおもときょう

明治末期(1892)におこった神道系宗教団体
京都府綾部市の大工の未亡人出口なおが教祖。「お筆先 (ふでさき) 」を書き,艮 (うしとら) の金神 (こんしん) を祭れと説いた。女婿出口王仁三郎 (おにさぶろう) の活躍で教団に発展したが,1935年不敬事件を理由に結社禁止となった。第二次世界大戦後,大本愛善苑として復活。

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世界大百科事典(旧版)内の大本教の言及

【出口王仁三郎】より

…宗教家。大本教を発展に導いた教義の体系者であり教団の組織者。京都府亀岡市穴太の小作農の長男に生まれた。…

【出口なお】より

…大本教の教祖。丹波国福知山(現,京都府福知山市)の大工桐村五郎三郎と妻そよの長女として生まれた。…

【不敬罪】より

…第1次大戦後の1920年代に入ると,ロシア,ドイツをはじめヨーロッパ諸国の革命と君主制の崩壊の影響を受けて日本でも社会主義・共産主義の運動が台頭したが,不敬罪はこうした社会主義者たちの天皇制批判に対し発動された。同時に,この時期には大本教(1921発動)や天理研究会(1928発動)という急進的な新興教団の取締りにも使われ,この法は新興宗教の抑圧の手段にも使われるようになった。これら新興教団はけっして天皇制に批判的であったわけではないが,政府はこうした淫祠邪教が,天皇とは異なる神で人々を動員していることを恐れて,その壊滅をめざしたのである。…

※「大本教」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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