赤岩村(読み)あかいわむら

日本歴史地名大系 「赤岩村」の解説

赤岩村
あかいわむら

[現在地名]気仙沼市 赤岩牧沢まきさわ・同大滝おおたき・同物見ものみ・同館森たてもり・同館下たてした・同前田まえだ・同迎前田むかえまえだ・同平貝ひらがい・同どろ・同杉の沢すぎのさわ・同小田おだ・同石兜いしかぶと・同老の松おいのまつ・同みなと・同上羽田かみはだ・同羽田はだ・同高前田たかまえだ・同四十二しじゆうに・同大石倉おおいしぐら・同宮口下みやぐちした・同長柴ながしば・同水梨子みずなし・同五駄鱈ごだんだら

新城しんじよう村・気仙沼本郷の南に位置し、東は気仙沼湾、西は磐井いわい津谷川つやがわ(現岩手県東磐井郡室根村)、南は北上山地より東に延びる丘陵尾根を境に松崎まつざき村。


赤岩村
あかいわむら

[現在地名]千代田町赤岩

東は瀬戸井せどい村・萱野かやの村・鍋谷なべや村、野辺のべ(現館林市)、西は舞木まいぎ村・福島ふくじま村、南は武蔵国幡羅はたら葛和田くずわだ村・俵瀬たわらせ(現埼玉県大里郡妻沼町)利根川を挟んで相対し、北は篠塚しのづか(現邑楽町)。嘉暦三年(一三二八)四月八日の三善貞広寄進状案(長楽寺文書)に添えられた弘願寺寺領注文によれば、佐貫さぬき庄内「赤岩郷内名田畠」があげられている。「永正十五年道者日記」に「あか岩」のうちた弥二郎・同さくの大郎・やとう・五郎四郎・藤七がみえる。永禄一〇年(一五六七)と思われる一二月二日の上杉輝虎書状写(歴代古案)によれば、北条氏政父子は「号赤岩地ニ懸船橋、利根川取越、彼地ニ可付落居擬之段」と、赤岩に船橋を架けて利根川を渡っている。


赤岩村
あかいわむら

[現在地名]佐久市赤岩

岩村田いわむらだ町の西、浅間山南麓の火山泥流地にある村。赤褐色の残丘を点々と残し、村名もここから出たと思われる。東北は岩村田・長土呂ながとろ市村新田いちむらしんでん常田ときだ、西南は上塚原かみつかばら平塚ひらつかなどの村と接する平坦地。

「大永・天文・弘治の間の通路一変して(中略)、塚元通り蒲村一里塚洞昌寺の東にあり元平塚・中路・舟久保をわたる」(四鄰譚藪)とあって、中山道の整備以前にはかま村といい、この辺りを主要通路が通り、また「寛永の比、(岩村田で)立てる家ハ、蒲村にて、苅たる萱を用」(同書)いたともいう。


赤岩村
あかいわむら

[現在地名]高郷村揚津あがつ

阿賀川の北岸にあって中山なかやま村の北西に続く。同村とは耕地が入交じって一村のようであった(新編会津風土記)。本村の南に中村なかむら、中村のさらに南の阿賀川縁に子峯こがみね(小ヶ峯)の各端村がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に赤岩とみえ、高一一九石余。「新編会津風土記」によると家数は本村九・中村五・子峯八。中村では稲荷神社、子峯では天満宮を祀る。用水は慶長四年(一五九九)に築かれた向原むけのはら(周囲七〇間余)、南西部にあって明暦元年(一六五五)築造の周囲九〇間余の堤、その東の宝暦一三年(一七六三)に築造した堤、村の南方にあって享保一二年(一七二七)に築かれた周囲一八〇間の堤などによった。


赤岩村
あかいわむら

[現在地名]中野市乙 赤岩

高井富士と称される高社こうしや山麓に立地し、東は夜間瀬よませ上木島かみきじま田上たがみの各村と峰上で境し、西は笠原かさはら壁田へきだ両村、南はこし深沢新田ふかさわしんでんの両村、北は上柳沢かみやなぎさわ村に接している。

本村は笠原南条に包含される。夜間瀬川の流路の変遷で現在河原となっている所に四丁町しちようのまち石見堂いしみどう火打田ひうちだ等の地名があり、集落の山麓に移動したと伝える。

初見は、天正六年(一五七八)二月下諏訪秋宮造宮帳で、瑞籬五間を南笠原とともに都合一二貫三〇〇文を寄進。森忠政の領有を経て松平忠輝領となるや松平庄右衛門宗世の知行となり、慶長一七年(一六一二)八月堀直寄領は渡辺伝左衛門に知行一千二〇〇石のうち本村分二〇石五斗六合を与えた。


赤岩村
あかいわむら

[現在地名]天瀬町赤岩・桜竹さくらだけ

桜竹村の北から東に及ぶ村域で、玖珠くす川左岸の荒山あらやま簗瀬やながせ、同支流の赤岩川流域の赤岩などからなる。「あかゆわ」とも。天保郷帳には古くは赤岩村・杉河内すぎのこうち村・やな村三ヵ村とある。正保郷帳に村名がみえ、田八一石余・畑二四石余で、石井いしい郷に属し、柴山有と記す。寛文四年(一六六四)の小川代官支配高帳(長野家文書)では高一八七石余で、免三ツ八分四厘、永荒二石余。享保八年(一七二三)の日田郡毛付高帳(千原家文書)では毛付高一八二石余。嘉永三年(一八五〇)の日田郡村々書上帳(高倉家文書)では家数七八・人数三三。


赤岩村
あかいわむら

[現在地名]六合村赤岩

白砂しらすな川の左岸、高間たかま(一三四一・七メートル)西山麓の村。西は白砂川を挟んで日影ひかげ村。万治二年(一六五九)の沼田藩領分書上写によると高七〇石余。寛文郷帳では田方九斗余・畑方六九石余。寛文三年(一六六三)の沼田藩領新検地控では高三一六石余。延宝八年(一六八〇)年貢割付状(湯本文書)によると高三四四石余、給地分一石余・諸々荒地永引二三石余。田畑取米合一二七石余、うち田方一石余・畑方一二五石余。貞享二年(一六八五)の沼田藩領再検地控では高一一三石余。元禄郷帳では幕府領で、寛延二年(一七四九)幕府領と旗本伊丹領の二給になった(湯本文書)


赤岩村
あかいわむら

[現在地名]羽茂町三瀬さんせ 赤岩

町域南東部海岸の三瀬地区東端に位置する。西は野崎のざき村、東は大杉おおすぎ(現赤泊村)、前面は海、背後は峠道を通って、羽茂本郷はもちほんごう村へ至る。仮屋かりや川が深く山地を開析して古くから耕地が開け、内陸のほうから海岸部へ開発が進んだ。海岸部の岩は赤い。元禄七年(一六九四)検地帳(三瀬区有)では田一町八反余・畑八町九反余。屋敷は地字才神・うへ・兵庫・脇道・たか・斎藤・赤岩などにある。「佐州巡村記」では、田三町三反余・畑八町二反余、戸口は一九軒・一一五人。


赤岩村
あかいわむら

[現在地名]下郷町沢田さわだ

桃曾根ももそね村の東、阿賀川右岸の平地と段丘上に立地。会津若松から田島たじま(現田島町)に至る道(川路通)が通る。南山御蔵入領松川組に属する。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」では九九布こうぶ郷のうちに村名がみえる。宝暦八年(一七五八)の会津郡大沼郡人別牛馬改帳(阿久津家文書)では家数四・人数二一、馬二。「新編会津風土記」によれば家数二。農業のかたわら四月初めから一〇月上旬頃まで会津若松、田島などで米・大豆・味噌などを仕入れ、関東方面へ運送する仲付業に従事し現金収入を得ていた(文化四年「下郷四箇組風俗帳」)


赤岩村
あかいわむら

[現在地名]豊橋市多米ため

多米村の西、岩崎いわさき村との間にあって、朝倉あさくら川の南岸に位置する。「多米郷土誌」によると、永正二年(一五〇五)よりつねに吉田藩領。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地高は、六七石余うち赤岩せきがん寺領が五〇石を占める。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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