薪荘(読み)たきぎのしょう

百科事典マイペディア 「薪荘」の意味・わかりやすい解説

薪荘【たきぎのしょう】

山城国綴喜(つづき)郡の木津川西岸,現京都府京田辺市の甘南備(かんなび)山山麓にあった石清水(いわしみず)八幡宮領。薪園ともよばれ,10世紀に石清水八幡宮に寄進されたというが(史料上の初見は12世紀半ば),平安時代の様子は不明。当荘の北西方に奈良興福寺領大住(おおすみ)荘があり,1235年両荘間に激烈な紛争が発生した。発端は用水相論であったが,石清水・興福寺という二大権門の確執に発展して朝廷幕府を巻き込み,翌年末近くまで争乱が繰り返された。争乱の経過は1235年5月〜10月,1235年12月〜1236年3月,1236年7月〜11月の3時期に分けられるが,第1期には興福寺衆徒による薪荘在家60宇余の焼打ち,第2期には八幡使による大住荘春日神人(じにん)の殺害などの事件が発生,1235年12月には興福寺衆徒は七大寺衆徒にも共闘を求めながら春日神木を奉じて北上し,これを阻止しようとする六波羅武士と宇治川を挟んで対陣している。1236年10月,幕府はかつて守護職を設置することのなかった大和に守護を置き,衆徒知行荘園没収地頭を補すという強行策を決定,これにより事態はようやく鎮静化した。これをうけて幕府は11月にはいったん設置した守護・地頭を廃止している。しかしその後も両荘間の境相論は続き,1281年院宣によって両荘は〈関東一円之地〉とされた(南北朝期には当荘は石清水八幡宮に還付されている)。

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改訂新版 世界大百科事典 「薪荘」の意味・わかりやすい解説

薪荘 (たきぎのしょう)

山城国綴喜(つづき)郡にあった石清水八幡宮領の荘園。薪薗(たきぎのその)とも呼ばれた。保元3年(1158)12月3日の官宣旨に宮寺領として現れるのが史料上の初見であるが,後の史料によると薪薗は10世紀に石清水八幡宮に寄進されたという。1235年(嘉禎1)当荘の西北にある興福寺領大住(おおすみ)荘との間で用水相論が起こり,興福寺による薪荘在家(ざいけ)60宇の焼打ち,石清水八幡宮神人(じにん)2人の殺害の結果,両荘の相論は石清水八幡宮と興福寺の両権門(けんもん)間の相論に拡大した。両者ともに神輿神木をおし立てて朝廷に強訴(ごうそ)する大相論に発展したこの事件は,翌年,鎌倉幕府がついに大和国に守護・地頭を設置しようとしたことにより,いったんは鎮静化する。しかしその後も両荘の堺相論は続き,81年(弘安4)の院宣によって当荘と大住荘は〈関東一円之地〉とされた。その後の歴史は詳しくはわからないが,南北朝期にはすでに石清水八幡宮領に還付されている。
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