薬師寺村(読み)やくしじむら

日本歴史地名大系 「薬師寺村」の解説

薬師寺村
やくしじむら

[現在地名]南河内町薬師寺

川右岸の低地から小谷の入組む宇都宮西台地にかけての現南河内町北西部を占める。東は町田まちだ村・田中たなか村、西から南は都賀つが(現下都賀郡)、南は仁良川にらがわ村、北は多功たこう(現上三川町)地名の由来は下野薬師寺が建立され、中世薬師寺庄があったことによる。戦国初期と推定される六月一九日の古河公方足利政氏書状(小山文書)に「薬師寺郷」とみえ、政氏が同郷を小山成長から返還させた代り天明てんみよう(現佐野市)の地を宛行っている。

近世初めは幕府領、慶長一〇年(一六〇五)に出羽秋田藩領となる。同一七年の関東八州真言宗諸寺連判留書案(醍醐寺文書)に村名がみえ、当村の安国あんこく寺・般若はんにや院・龍興りゆうこう寺が判を加えている。寛永五年(一六二八)の万相定覚(国立公文書館蔵)によれば、高一千四四五石余、納米四〇四石余・免率二ツ八分、肝煎手作六〇石・肝煎免米二石・関免米三石余。


薬師寺村
やくしじむら

[現在地名]豊前市薬師寺

大西おおにし村・永久ながひさ村・河原田かわらだ村の南に位置し、集落は佐井さい川と岩岳いわたけ川中流域に立地する。正慶元年(一三三二)九月の薬師寺村薬師寺棟札銘文(太宰管内志)によれば、宇都宮大和守頼房によって当地に薬師堂が建立されたという。天文四年(一五三五)八月一三日の大内義隆袖判下文写(大友家文書録/大分県史料三二)によれば、宇佐郡の恵良盛種は妙見岳みようけんだけ(現大分県院内町)での合戦の恩賞として、義隆より「上毛郡薬師寺村内壱町□段参拾五代地」を宛行われている。


薬師寺村
やくしじむら

[現在地名]師勝町薬師寺

熊之庄くまのしよう村の西に細長く位置する。西境は五条ごじよう川を挟んで曾野その(現岩倉市)、北は藤島ふじしま(現小牧市)と接している。東西一町一七間・南北七町六間(徇行記)で、村名は村内にある薬師寺に由来。織田信雄分限帳に「百卅四貫 薬師寺郷内」とみえる。

寛文一一年(一六七一)には家数二四、男六二人・女七三人(寛文覚書)。「徇行記」によれば田は五反九畝余、畑は一四町九反七畝余で、概高一五五石余は藩士平岩十衛門の給知。


薬師寺村
やくしじむら

[現在地名]岐南町薬師寺

現岐南町の南西端に位置し、西は栗木くりき(現笠松町)、東は円城寺えんじようじ(現同上)、南は木曾川。「濃州徇行記」に「民居は堤上にあり、(中略)農事のみを渡世とせり、田畠は堤の内外にあり」とある

慶長郷長に村名がみえ、高二二六石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では稲葉正成(十七条藩)領。同五年尾張藩領となり(明暦覚書)幕末に至る。正保郷帳では田方一三一石余・畑方八九石余。なお寛永一〇年(一六三三)から同一五年まで村高のうち一一八石余は竹腰大膳の給地となっていた(「源敬様御黒印集」徳川林政史研究所蔵)。慶安五年(一六五二)三月、尾張藩によって地押検地が行われた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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