藤原保昌(読み)ふじわらのやすまさ

百科事典マイペディア 「藤原保昌」の意味・わかりやすい解説

藤原保昌【ふじわらのやすまさ】

平安中期の廷臣。右京大夫致忠(むねただ)の子,母は元明親王(醍醐天皇皇子)の女(むすめ)。左衛門督左馬頭などを務める一方,日向肥後大和などの国守歴任藤原道長・頼通に家司として仕えた。武勇に優れ,《今昔物語集》の大盗袴垂(はかまだれ)を恐怖させた説話は有名。また酒呑童子説話では源頼光とともに鬼退治をしている。《後拾遺和歌集》の歌人で,和泉式部の夫としても知られる。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原保昌」の意味・わかりやすい解説

藤原保昌 (ふじわらのやすまさ)
生没年:958-1036(天徳2-長元9)

平安中期の廷臣。右京大夫致忠(むねただ)の子。母は醍醐天皇の皇子源元明の女。左衛門督,左馬頭などを務めるかたわら,日向,肥後,大和,丹後,再び大和(重任),摂津の各国守を歴任。藤原道長・頼通の有力家司(けいし)の一人で,武勇にすぐれ〈勇士武略の長〉と評される。夜の都大路で大盗袴垂保輔(はかまだれやすすけ)を威圧恐怖させた,《今昔物語集》の説話は有名。酒呑童子説話では源頼光とともに鬼退治にあたっている。和歌をよくし,《後拾遺集》の歌人で,和泉式部の最後の夫。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原保昌」の解説

藤原保昌 ふじわらの-やすまさ

958-1036 平安時代中期の官吏
天徳2年生まれ。南家藤原元方の孫。藤原致忠(むねただ)の次男。藤原道長の家司(けいし)。大和,丹後,摂津の国守,左馬頭(かみ)などを歴任,正四位下にいたる。武勇にすぐれ,盗賊袴垂(はかまだれ)をおそれさせた説話は有名。摂津平井(兵庫県)に住し,平井氏も名のった。和泉(いずみ)式部の夫。長元9年9月死去。79歳。

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世界大百科事典(旧版)内の藤原保昌の言及

【和泉式部】より

…彰子のまわりには,紫式部,赤染衛門らがいた。式部は女房として仕えるうちに,道長の家司藤原保昌の妻となり,丹後守に任ぜられた夫に伴われて同国へ下った。25年(万寿2),若くして歌人として名を知られた小式部内侍に先立たれ,悲しみに沈んだが,33年(長元6)以後の諸記録に式部の名を見いだすことはできない。…

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