改訂新版 世界大百科事典 「藤原継縄」の意味・わかりやすい解説
藤原継縄 (ふじわらのつぐただ)
生没年:727-796(神亀4-延暦15)
奈良末~平安初頭の官人。藤原豊成の第2子。平安遷都前後の太政官の中心人物の一人。《日本後紀》の継縄の伝には謙恭な人柄で〈政迹聞えず才識なしといえども世の譏を免れた〉と評されている。763(天平宝字7)従五位下となり,恵美押勝の乱ののち,766年(天平神護2)に参議となった。以降は順調に昇進し,外衛大将,大蔵卿,宮内卿,兵部卿を歴任し,780年(宝亀11)には中納言となった。この年陸奥で伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の反乱がおこり,征東大使となった。783年(延暦2)大納言となり,藤原種継暗殺事件ののち立太子した安殿親王(のち平城天皇)の皇太子傅となり,妻百済王明信は尚侍として桓武天皇の信任をうけ,以降たびたびその第,別業に行幸があり,788年皇太子の元服にも加冠を奉仕し,790年には右大臣となった。以降葛野(かどの)別業への行幸を経て平安京への遷都が断行され,またその右大臣宣は約40に及んでおり,当時の政治に大きな影響をもったと思われる。この間《続日本紀》の編纂にもたずさわり,794年には後半の14巻を撰進した。右大臣正二位兼皇太子傅中衛大将で没し,のち従一位が贈られ,度僧7人を賜った。
執筆者:佐藤 宗諄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報