日本歴史地名大系 「蛤町」の解説 蛤町はまぐりちよう 東京都:江東区旧深川区地区蛤町[現在地名]江東区永代(えいたい)二丁目四ヵ所に分散する蛤町の一で通称三丁目(さんちようめ)。深川蛤(ふかがわはまぐり)町とも称した。町の西と北の二方に掘割があり、北には坂田(さかた)橋が架かり伊沢(いざわ)町に通じる。南は北川(きたがわ)町・奥川(おくがわ)町・因速(いんそく)寺・万徳(まんとく)院。文政町方書上によると、貞享三年(一六八六)町人孫三郎が買請け、元禄八年(一六九五)の検地で海辺(うみべ)新田に高入れされて町並屋敷地となった地と、同一二年築地御用地としてもと木挽(こびき)町(現中央区)の木置場であった土地に与えられた代地からなる。 蛤町はまぐりちよう 大阪府:堺市堺蛤町[現在地名]堺市北旅籠(きたはたご)町西(にし)三丁山伏(やまぶし)町より西、海岸に至るまでの町。元禄二年(一六八九)堺大絵図は大道の西七筋目を挟み、南北長三〇間の両側町に「蛤町」と記し、東頬一二筆・西頬一二筆の宅地割で、「蛤屋」「網屋」など漁業関係の屋号が多い。所属町組は湯屋(ゆや)町浜(はま)に同じ。宝永元年(一七〇四)大和川付替えによる土砂の堆積とともに町域は西部の七堂(しちどう)浜に及んだ。寛保二年(一七四二)七堂浜のうち当町の西部に続く一画は蛤町人拝領地として払下げられ、その西側には三間の堀が築かれて、のちに堺の西の周濠となる内(うち)川として整備された。七堂浜には鉄砲射的場が設けられたが、享保年間(一七一六―三六)以降周辺に新田が造成されて危険になったため、寛保三年的の後方に土手を築いて安全を図った(文化一〇年堺手鑑)。 蛤町はまぐりちよう 東京都:江東区旧深川区地区蛤町[現在地名]江東区永代(えいたい)二丁目・門前仲町(もんぜんなかちよう)一―二丁目中島(なかじま)町の東から大島(おおしま)町と大島川の北側沿いに位置する町屋。町内東側、大島町の北に続く場所を通称上二丁目とよび、その東側永代寺門前仲町に続く場所は、横町を境に東側を一丁目、西側を二丁目とよぶ。以上三ヵ所は漁師の住む浜十三町の一。このほか深川寺町裏続きと、北川町続きに通称三丁目とよばれる代地がある。深川蛤(ふかがわはまぐり)町とも称された。文政町方書上によれば、通称上二丁目はもと内藤外記の所有地を宝暦一二年(一七六二)並木甚太郎が購入し、以降町人の持地となる。町内の間数は田舎間で一二七間余、坪数四千八三四坪余。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by