衆徒(しゅと)(読み)しゅと

日本大百科全書(ニッポニカ) 「衆徒(しゅと)」の意味・わかりやすい解説

衆徒(しゅと)
しゅと

「しゅうと」ともいう。平安時代ごろから、東大寺、興福寺、さらには比叡山(ひえいざん)延暦寺(えんりゃくじ)、園城寺(おんじょうじ)、高野山(こうやさん)金剛峯寺(こんごうぶじ)などで僧の集団化が進み、また吉野(よしの)の大峰山(おおみねさん)にも、後の日光山にも修験(しゅげん)の徒が集まるようになった。そうした大寺僧侶(そうりょ)の集団を大衆(だいしゅ)といい、その成員の一人一人を大衆の徒という意味で、衆徒とよぶようになった。

 衆徒の範囲は、『南都僧徒職服記』では、髪をおろし得度受戒(とくどじゅかい)したもの一般をさし、高位にある学侶に進むものもあったが、その中﨟(ちゅうろう)あたりまでが昇進の限度であった。のち武家出身者が多くなり、白袈裟(しろげさ)、黒頭巾(くろずきん)、帯刀のものも現れ、僧兵となった。官務という事務職、沙汰衆(さたしゅ)という記録所員、貝衆という集会の合図の貝を吹くものなどがあり、その他は平衆徒とされている。『驢嘶余(らいろせいよ)』では、延暦寺の衆徒は清僧であり、大僧都法印(だいそうずほういん)の位にまで進むことができ、まれには僧正(そうじょう)にもなれたと記す。平民出身でも可能であったという。高野山では、『諸宗階級』で、学侶(がくりょ)、定額(じょうがく)僧ともいわれたといい、衆分、入寺、阿闍梨(あじゃり)の3階級があったという。それぞれ武器を帯しており、他寺や官衙(かんが)との争いを生ずることが多く、その横暴さが目だった。

[木内堯央]

 平安時代の律令(りつりょう)制の弛緩(しかん)するころになると、畿内(きない)を中心とする古来の有力寺院では、僧侶の質が低下し、かつ寺院の経済的進出と自衛のため、人員の増加をきたし、多くの僧兵を擁するようになった。興福寺では平安末から、大和(やまと)(奈良県)の寺領荘園(しょうえん)地主のうちの有力者を、僧衆に準じて衆徒と称し、春日(かすが)社の白衣神人(びゃくえじにん)である国民(こくみん)とあわせて、武力として組織し、鎌倉時代に入っては衆徒20人を選んで4年間興福寺に在勤させ、これを衆中(しゅうじゅう)または官符(かんぷ)衆徒とよび、学侶・六方衆(ろっぽうしゅう)の指揮下におかしめた。しかし南北朝時代以降は諸国動乱の影響を受けて、寺内でも一乗院、大乗院などが相争い、この両者に分属した衆徒はしだいに実力を養って、本寺内の実権を握り、大小名化の道をたどった。その有力なものには乾(いぬい)、長谷川(はせがわ)、中川、南、散在、平田など大和六党があり、国内外の諸勢力と離合しつつ抗争を繰り返したが、結局、織田信長の中央進出と結んだ一乗院門跡(もんぜき)の坊人筆頭筒井(つつい)氏が、大和一円を制圧、宰領するに至り、興福寺その他諸大寺も大打撃を受け、その衰退とともに衆徒もその存在の根拠を失うに至った。

[平井良朋]

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