日本歴史地名大系 「西御厨」の解説
西御厨
かさいのみくりや
〔成立経過と領域〕
永万元年(一一六五)三月二一日の占部安光文書紛失状写(鏑矢記、以下断りのない限り同書)によれば、葛西清重が伊勢神宮に当御厨を寄進したとされる。占部安光は領家口入職を先祖代々受継ぎ、年貢などを伊勢内宮に上分してきたが、動乱により伝えられた文書類がことごとく紛失してしまった。そこでこれまで先祖代代領家口入職を受継いできたことの証明を願っており、後代に紛失した文書が出てきたならば盗んだ盗人を重科に処すべきとしている。願いが成就したならば、内宮に上分する分に加え外宮にも年貢を納入し、二宮の領地とすることを約束している。しかしこの史料は偽文書であり、葛西一帯が御厨として寄進されたのは永万元年までさかのぼることはできない。建久三年(一一九二)八月日の伊勢大神宮神領注文写(神宮雑書)に記載はなく、建久四年以降に葛西清重の寄進の結果御厨として成立した。葛西氏は平安時代後期、当地に進出し、在地領主となった。同氏は桓武平氏良文流豊島氏の分家とされている。豊島氏は秩父氏から発生した豪族で、秩父将常が豊島郡・葛西郡に勢力を伸ばし、自分の息子である武常を配置したものと考えられる。武常の子常家は葛西に住み、後に豊島に移り豊島太郎と称したとされる。常家の子康家や孫の清光の頃に豊島郡・葛西郡の支配をほぼ確立したといわれ、この清光の子供のうち朝経が豊島の名を継ぎ、清重が葛西の名を継いだ。
御巫清直影写本「神鳳鈔」には下総国「内宮葛西猿俣御厨」とみえ、「百八十町 新御領在」とある。応永五年(一三九八)八月日の葛西御厨田数注文写の冒頭は猿俣・小鮎・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報