覚阿(読み)かくあ

精選版 日本国語大辞典 「覚阿」の意味・読み・例文・類語

かくあ【覚阿】

平安末期の天台宗の僧。近江の人。はじめ比叡山に学ぶ。承安元年一一七一)宋に渡り、杭州霊源寺の仏海禅師、瞎道慧遠(かつどうえおん)参禅。笛の音を聞いて大悟したといわれ、帰国後、叡山に隠れ、その後の行跡は世に知られない。康治二年(一一四三)生。没年未詳。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「覚阿」の意味・わかりやすい解説

覚阿
かくあ
(1143―?)

平安末期の叡山(えいざん)の僧。俗姓藤原氏。栄西(えいさい)より早く中国の宋朝禅(そうちょうぜん)を日本へ伝えた。出家後に教学を学んだが、南宋で禅が盛んなことを聞き、1171年(承安1)入宋(にっそう)し、杭州(こうしゅう)(浙江(せっこう)省)霊隠寺(りんにんじ)の瞎堂慧遠(かつどうえおん)(1103―1176)に参じた。長江の岸で鼓声を聞いて大悟し、慧遠に呈した偈(げ)が、日本人としてはただ一人、『嘉泰普燈録(かたいふとうろく)』『五燈会元(ごとうえげん)』に収められている。帰朝後は叡山に庵居(あんきょ)したが、高倉(たかくら)天皇に召されて禅要を問われたとき、笛を吹いて答えたものの理解されず、時機未熟なることを感じて、ふたたび叡山に帰り、以後世間へ出ることはなかった。

[中尾良信 2017年6月20日]

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改訂新版 世界大百科事典 「覚阿」の意味・わかりやすい解説

覚阿 (かくあ)

平安末期の禅僧生没年不詳。藤原氏の出身で,はじめ比叡山に登り勉学に努めたが,貿易商に宋国で禅の盛んなことを聞き,渡海入宋を決意した。1171年(承安1)南宋の杭州に至り,霊隠(りんにん)寺の仏海禅師瞎堂慧遠に教えを乞うたが,容易に奥義に達することはできなかった。翌年金陵に遊んだ際,たまたま鼓声を聞いて忽然(こつぜん)大悟し,仏海の印可を得ることができた。覚阿が帰朝すると高倉天皇は召して禅宗の要を問うた。覚阿はただ笛を吹いてこれに答えたが,その意を解するものはなく,禅受容の機運いまだ熟さぬまま,覚阿の法嗣は絶えたという。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「覚阿」の解説

覚阿 かくあ

1143-? 平安時代後期の僧。
康治(こうじ)2年生まれ。比叡(ひえい)山で天台教学をまなぶ。承安(じょうあん)元年(1171)宋(そう)(中国)にわたり,霊隠(りんにん)寺の瞎堂慧遠(かつどう-えおん)に師事して禅をまなび,印可をえた。帰国後,比叡山にもどった。近江(おうみ)(滋賀県)出身。俗姓は藤原。

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朝日日本歴史人物事典 「覚阿」の解説

覚阿

没年:没年不詳(没年不詳)
生年:康治2(1143)
平安後期の天台宗の僧。俗姓藤原氏。比叡山で出家,梵漢の書に通暁した。中国での禅の隆盛を知り,承安1(1171)年,29歳で弟金慶と共に渡宋。杭州の霊隠寺で仏海遠禅師に就く。印可を受けて帰国したが,比叡山に籠り弟子の育成などをしなかった。

(三橋正)

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世界大百科事典(旧版)内の覚阿の言及

【大江広元】より

…16年に再び政所別当になると,大江姓に復帰した。翌年重病により出家して覚阿と称したが,その後も,将軍実朝暗殺事件,承久の乱,伊賀氏の変と相次ぐ事件の処理にあたり,執権政治の安泰化に努めた。【五味 文彦】。…

【慈善事業】より

…叡尊の弟子の中でもこのような実績をもつ人物が,非人が多く参集した四天王寺における律宗の拠点を守っていたことは興味深い事実である。 以上の西大寺流律宗の活動は,律僧の慈善事業の中でもとくに目立つものであるが,他にも泉涌寺の覚一房覚阿(生没年未詳)は,1304年(嘉元2)の後深草院の死去に際して,蓮台野・東悲田院・清水坂などの京都の非人に非人施行をし,温室を設けて非人垢すり供養を行っている。また,壬生大念仏狂言の創始者である法金剛院の円覚上人導御(1223‐1311)も,悲田院の貧病者を救い,獄舎の囚人をにぎわしたと伝えられている。…

※「覚阿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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