平安末期の叡山(えいざん)の僧。俗姓は藤原氏。栄西(えいさい)より早く中国の宋朝禅(そうちょうぜん)を日本へ伝えた。出家後に教学を学んだが、南宋で禅が盛んなことを聞き、1171年(承安1)入宋(にっそう)し、杭州(こうしゅう)(浙江(せっこう)省)霊隠寺(りんにんじ)の瞎堂慧遠(かつどうえおん)(1103―1176)に参じた。長江の岸で鼓声を聞いて大悟し、慧遠に呈した偈(げ)が、日本人としてはただ一人、『嘉泰普燈録(かたいふとうろく)』『五燈会元(ごとうえげん)』に収められている。帰朝後は叡山に庵居(あんきょ)したが、高倉(たかくら)天皇に召されて禅要を問われたとき、笛を吹いて答えたものの理解されず、時機未熟なることを感じて、ふたたび叡山に帰り、以後世間へ出ることはなかった。
[中尾良信 2017年6月20日]
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(三橋正)
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…16年に再び政所別当になると,大江姓に復帰した。翌年重病により出家して覚阿と称したが,その後も,将軍実朝暗殺事件,承久の乱,伊賀氏の変と相次ぐ事件の処理にあたり,執権政治の安泰化に努めた。【五味 文彦】。…
…叡尊の弟子の中でもこのような実績をもつ人物が,非人が多く参集した四天王寺における律宗の拠点を守っていたことは興味深い事実である。 以上の西大寺流律宗の活動は,律僧の慈善事業の中でもとくに目立つものであるが,他にも泉涌寺の覚一房覚阿(生没年未詳)は,1304年(嘉元2)の後深草院の死去に際して,蓮台野・東悲田院・清水坂などの京都の非人に非人施行をし,温室を設けて非人垢すり供養を行っている。また,壬生大念仏狂言の創始者である法金剛院の円覚上人導御(1223‐1311)も,悲田院の貧病者を救い,獄舎の囚人をにぎわしたと伝えられている。…
※「覚阿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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