平安中期の真言宗の僧。讃岐(さぬき)国(香川県)出身。別称を般若寺僧正(はんにゃじそうじょう)という。862年(貞観4)東寺の聖宝(しょうぼう)にみいだされて入京し、16歳で出家、しばらく南都で三論宗、法相(ほっそう)宗を学び、興福寺維摩会(ゆいまえ)の竪義(りゅうぎ)(論義問答)で名を高めた。895年(寛平7)聖宝から伝法灌頂(でんぽうかんじょう)を受け、900年(昌泰3)仁和寺(にんなじ)別当となり、般若寺を復興した。909年(延喜9)聖宝の寂後、東寺長者となり、以後、東大寺検校(けんぎょう)、醍醐寺(だいごじ)および高野山座主(こうやさんざす)なども兼任した。宗祖空海に弘法(こうぼう)大師という諡号(しごう)を奏請し、921年10月27日それを賜った。大師の御影供(みえいく)も観賢から始まるなど、事教二相を究めた。
[平井宥慶 2017年6月20日]
(正木晃)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
…この結果,真言教団の体制は整ったが,その極端な排他的高野山中心主義は,かえって高野山の発展を妨げた。真然の没後,《三十帖策子》の帰属と年分度者の設置をめぐって京都の東寺と高野山の間に紛争が続いたが,東寺長者観賢(かんげん)によって,真言宗は東寺を本寺とし,高野山などの諸寺をその末寺とする本末体制が確立され,高野山は長く東寺の長者の支配下に置かれた。921年(延喜21)空海に大師号がおくられ,入定(にゆうじよう)信仰が普及した。…
…889年(寛平1)伽藍がほぼ完成した時期に,空海の弟子真然は弟子の寿長を初代座主に補任し,以後真然直系で高野山に常住する僧をこれにあてることにした。空海の入唐中のノートである《三十帖策子》の帰属をめぐる紛争ののち,東寺長者観賢(かんげん)はみずから金剛峯寺の座主を兼務して,真然と共通の弟子峰禅を金剛峯寺正別当に任じ,以後東寺長者による金剛峯寺の支配体制を確立した。第5代座主済高(せいこう)のとき高野山に執行職(しぎようしき)をおき,第4代執行雅真のときから検校(けんぎよう)とも称するようになった。…
※「観賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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