中国の近代科白劇,新劇をいう。1907年,春柳社が《椿姫》《アンクル・トムの小屋》を東京で上演したのに始まる。春柳社は,欧陽予倩(おうようよせん)ら東京に留学していた留学生が,壮士劇や新派の影響を受けて,1906年末に結成した劇団である。これをうけて春陽社を結成した王鐘声(1874?-1911)は《アンクル・トムの小屋》を上海で初演した。10年(宣統2)には北京でも上演された。舞台照明,衣裳などの新奇さがうけて大評判をとった。あたかも辛亥革命の前夜,新生の話劇は〈文明戯〉と銘うたれたが,劇中,俳優は突然演説を始め革命を鼓吹し新文化を説いたのであった。王鐘声は天津で刑死をとげたものの,上海では任天知(じんてんち)の進化団が救国革命劇を演じた。社会教育と政治宣伝の傾向をつよくおびて始まった話劇であったが,12年民国成立後,〈文明戯〉は反封建の家庭劇や恋愛物に変容した。一時は多くの素人劇団を生んで,北京,上海のみならず,長江(揚子江)を上り四川の成都をはじめ各地に上演活動が行われた。しかししだいに軽薄な笑いと奇抜な道具に頼るあまり,芸術的な発展は閉ざされ衰退していった。
旧社会の批判と近代的社会改革を標榜した雑誌《新青年》は,17年6月号でイプセン特集を組み,ヨーロッパ劇の紹介,翻訳を行った。しかし実際の上演は,脚本の誤訳に演技の未熟さも手伝って成功をもたらすにはいたらなかった。五・四運動を経過した20年代になると,白話文運動を推しすすめる文学者たちの協力を得て上海に設立された民衆戯劇社が,演劇専門の雑誌《戯劇》を創刊(1921年5月)した。演劇学校をおこして演技力の向上をはかるとともに劇作家の育成をはかった。さらにヨーロッパ,アメリカそして日本の留学帰国者たち,熊仏西,余上沅,丁西林,洪深,田漢,さらに春柳社の一員で京劇俳優の欧陽予倩が加わり,ヨーロッパ的手法によった話劇の劇団を組織して,内容の深い芸術的な演劇を志した。28年に田漢は洪深らと上海芸大などの学生を中心に南国社をつくり,南京で好評を博し広州まで南下したが,まもなく反帝国主義,無産主義の立場から田漢の作品は芸術におぼれ庶民と遊離しているとの内部批判がおこった。田漢もこれを受け入れた。これよりのち話劇界は現実と密接に結びつく傾向をつよめた。
30年代に入ると,夏衍(かえん)ら日本無産階級演劇の影響を受けた左翼劇団,芸術劇社が翻訳劇を主にかなり評判を得たが4ヵ月で解散させられた。30年夏に結成された中国左翼劇団聯盟も弾圧されて崩壊,翌年中国左翼戯劇家聯盟(劇聯)として個人単位で都市の学校や工場に劇団を組織,活動を広げたが,33年多数の検挙者を出して潰滅し,地方や農村に入っていった。一方,唐槐秋(1898-1954)の中国旅行劇団が33年より14年間,上海,北京などの諸都市を巡業したことなどは外来の話劇を定着させるに力があった。34年以後,曹禺(そうぐう)などの優秀作品が上演される一方,ますます思想宣伝に傾斜していく。40年代には街頭劇やニュース劇の〈活報〉といった簡便な方法で宣伝第一,〈農村へ,部隊へ〉と呼ばれ,決定的となった。また37年の章泯主編《新演劇》や40年《戯劇と文学》にソ連の演劇,スタニスラフスキー理論が紹介され新中国に受け継がれた。
解放後は,国営劇場,劇団,学校の設立,全国の劇団の専業化,中央の優秀人材派遣,少数民族劇団結成等々質量ともにレベルの向上がなされた。土地改革などの思想宣伝演劇の傾向を保ちながらも,徐々に老舎《茶館》等の普遍性をもつ芸術作品もふえた。66年以降,文化大革命中は空白期で,復活後の78年秋,天安門事件を扱った上海の《声なき所にて》が出て話劇は再び注目を浴びた。近年,劇団の往来等国際交流も盛んである。
→中国演劇
執筆者:吉川 良和
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中国の演劇ジャンル。話しことばの劇の意味で、伝統演劇に対し日本でいう新劇をさす。1907年に留日学生が東京で結成した春柳(しゅんりゅう)社から話劇史は始まる。上海(シャンハイ)では話劇を提唱していた人々が文明戯(ウェンミンシー)とよばれる、日本の新派の流れをくむ演劇を上演していたが、しだいに商業化した。欧米や日本で新劇を学んだ焦菊隠(しょうきくいん)、李健吾(りけんご)、黄佐臨(こうさりん)、洪深(こうしん)、田漢(でんかん)、欧陽予倩(おうようよせん)らが話劇の導入に尽力し、1919年の五・四(ごし)運動とともに封建制否定、婚姻の自由、人道主義をテーマとしたイプセン、チェーホフ、B・ショー、菊池寛(きくちかん)らの戯曲が相次いで紹介され、欧陽予倩作『溌婦(じりつ)』、田漢作『獲虎之夜(とらがりのよ)』、丁西林(ていせいりん)作『圧迫(よくあつ)』なども上演された。また、人芸戯劇専門学校、北平(ベーピン)大学芸術学院戯劇系、南国芸術学院なども設立され、話劇の基礎が築かれた。
1930年代は旧ソ連のプロレタリア演劇の影響で話劇は労働者、学生のなかへ広まり、31年には左翼戯劇家連盟が結成された。抗日戦に入ると、救亡、抗敵演劇隊が編成され街頭劇や一幕劇で抗日救国を訴え、重慶(じゅうけい)や昆明(こんめい)などでの上演を通じ金山(きんさん)、朱琳(しゅりん)など名優が輩出した。30年代末にはスタニスラフスキー・システムの紹介が始まった。一方、30年代初頭、瑞金(ずいきん)を中心とするソビエト区では沙可夫(さかふ)、胡底(こてい)、韓進(かんしん)、李伯釗(りはくしょう)、石聯星(せきれんせい)らが活躍し、話劇のほか報道劇である活報(フォパオ)劇も上演し、ゴーリキー演劇学校を設立(1933)した。延安(えんあん)時代には、延安魯迅(ろじん)芸術学院戯劇系で新劇人の養成が行われ、毛沢東(もうたくとう)の「文芸講話」(1942)後は「労働者、農民のための演劇」をスローガンに、民族形式のヤンコー(秧歌)劇や新歌劇運動が展開された。
中華人民共和国成立(1949)後は、中央、上海両戯劇学院の設立や留学生の派遣で、優れた人材を各部門に送り出した。演出家では呉雪(ごせつ)、楊村彬(ようそんぴん)、夏淳(かじゅん)たちに、ソ連のルナチャルスキー演劇学院留学の鄧止怡(とうしい)、陳顒(ちんぎょう)、張奇虹(ちょうきこう)、周来(しゅうらい)らが加わり、話劇は充実し発展した。中国青年芸術劇院、上海人民芸術劇院、北京(ペキン)人民芸術劇院などの専門劇団や児童劇団のほか、陸海空三軍の専門劇団および労働者アマチュア劇団も多数設立された。解放軍兵士の自覚成長を描いた胡可(こか)作『戦闘裡(たたかいで)成長』(1949)、ウイグルの獣医たちに取材した武玉笑(ぶぎょくしょう)作『遠方の青年』(1962)、愛国をテーマにした王煉(おうれん)作『祖国狂想曲』(1981)など、リアリズムを基調とする多彩な題材の現代劇のほか、児童劇、歴史劇、翻訳劇も上演されている。文革時の停滞を破り、創作、演出、演技、舞台美術などのコンクールも盛んである。また、数度にわたる日本の新劇団やドイツのマンハイム民族劇団の訪中公演(1982)も迎え、老舎(ろうしゃ)作『茶館(さかん)』の訪欧(1980)、訪日公演(1983)、さらには英中合同演出のシェークスピア作『尺には尺を』(1981)、アーサー・ミラー作・演出の『セールスマンの死』の上演(1983)や、国際演劇協会加盟(1980)、ブレヒト・シンポジウム参加(1981)など国際交流も活発である。
[中野淳子]
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…この間演じられたのは《紅灯記》《智取威虎山》《白毛女》等八つの模範劇(様板戯)だけであったが,77年より旧劇の古典物が続々と復活し始めている。 一方,中国における新劇(話劇)は,留日学生らの結成した春柳社が,1907年東京で《椿姫》や《アンクル・トムの小屋》を上演したのに始まるとされる。五・四運動(1919)を機にイプセンをはじめとするヨーロッパの戯曲が,盛んに翻訳上演された。…
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