田漢(読み)デンカン

デジタル大辞泉 「田漢」の意味・読み・例文・類語

でん‐かん【田漢】[人名]

[1898~1968]中国の劇作家詩人。長沙(湖南省)の人。あざな寿昌じゅしょう。東京高師に学び、帰国後「南国月刊」を編集。のち、中国共産党に入党し、抗日民族統一戦線に協力。解放後、中国戯劇家協会主席などの要職を歴任。戯曲「咖啡店之一夜」「獲虎之夜」「麗人行」「関漢卿」など。ティエン=ハン。

ティエン‐ハン【田漢】

でんかん(田漢)

でん‐かん【田漢】

いなかの男。田舎漢でんしゃかん

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精選版 日本国語大辞典 「田漢」の意味・読み・例文・類語

でんかん【田漢】

  1. 中国の劇作家・詩人。長沙(湖南省)の人。字(あざな)寿昌(じゅしょう)。東京高師に学び、帰国後「南国月刊」を編集。のち、中国共産党に入党し、抗日民族統一戦線に協力。解放後、中国戯劇家協会首席などの要職を歴任。戯曲「咖啡店之一夜」「獲虎之夜」「麗人行」「関漢卿」など。ティエン=ハン。(一八九八‐一九六八

でん‐かん【田漢】

  1. 〘 名詞 〙 田舎(いなか)の男。田舎者田舎漢(でんしゃかん)

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百科事典マイペディア 「田漢」の意味・わかりやすい解説

田漢【でんかん】

中国の劇作家。湖南省出身。日本に留学。東京高師卒。留日中に郭沫若らと創造社を結成したが,のち脱退して上海芸術大学演劇科を率い,さらに南国社を創立し,一貫して中国演劇界の指導的地位にあった。解放後《関漢卿》など多くの作品を発表したが,文化大革命に獄死した。1979年名誉回復。
→関連項目中国左翼作家聯盟話劇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「田漢」の意味・わかりやすい解説

田漢
でんかん / ティエンハン
(1898―1968)

中国の劇作家。湖南省長沙県出身。東京高等師範学校に留学。1921年帰国後は南国電影劇社、南国社、南国芸術学院などを主宰し、映画、演劇活動、演劇人養成にあたった。左翼戯劇家連盟時代から指導的役割を担い、豪放磊落(らいらく)な彼の家は来客が絶えず、意気軒昂(けんこう)な議論で人々を激励し団結させた。初期代表作は『獲虎之夜(とらがりのよ)』(1921)。日本統治下の上海(シャンハイ)での3人の女性の生き方を描いた『麗人行(れいじんこう)』(1946)は洪深(こうしん)演出で47年に無錫(むしゃく)で初演。筆で強権に抵抗した元曲作家の尊厳を描いた『関漢卿(かんかんけい)』(1958)は日本では59年(昭和34)千田是也(これや)演出で初演。京劇戯曲には『謝瑤環(しゃようかん)』『白蛇伝(はくじゃでん)』などがある。詩歌にも優れた作品を残している。中国新劇の発展に欠くことのできない指導者の1人であった。

[中野淳子]

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改訂新版 世界大百科事典 「田漢」の意味・わかりやすい解説

田漢 (でんかん)
Tián Hàn
生没年:1898-1968

中国の劇作家。日本留学中から劇作を始め,1924年南国社を結成以後,上海芸術大学,南国芸術学院を創立し劇作,演出,教育に活躍した。32年共産党入党。左翼戯劇家聯盟書記として党の演劇活動の重要な役割を果たす。抗日反国民党の新劇,作詞,映画と精力的に才能を発揮し,中国最初の歌劇も書いた。解放後,戯劇家協会主席など要職についたが,文化大革命で批判された。代表作に《咖啡店の夜》などがある。彼が作詞した《義勇軍行進曲》は国歌。
執筆者:

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「田漢」の意味・わかりやすい解説

田漢
でんかん
Tian Han

[生]光緒24(1898)
[没]1968
中国の劇作家。湖南省漢寿県の人。字,寿昌。筆名,陳瑜 (ちんゆ) ,鉄瑞章。日本に留学中から新劇運動に熱中,1922年郭沫若らと創造社を起したが,やがて離れて劇団南国社を主宰し,欧陽予倩,洪深らと演劇界をリードし,『名優の死』 (1929) など多くの感傷的な作品を発表。 30年代には左翼作家連盟にも加わり,抗日戦争中は救亡演劇隊の指導にあたった。解放後は劇界の最高指導者であったが,文化大革命ではその歴史劇『謝瑶環』が反党反社会主義的であると批判され,66年逮捕され,2年後に獄中で死亡。死後名誉回復された。作品『蘇州夜話』 (28) ,『生の意志』 (29) ,『洪水』 (36) ,『関漢卿』 (58) など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「田漢」の解説

田漢 でん-かん

1898-1968 中国の劇作家。
光緒24年2月27日生まれ。日本留学中に新劇運動に傾倒し,1921年郭沫若(かく-まつじゃく)らの創造社に参加。帰国して南国芸術学院などを主宰し,多数の戯曲を発表した。1932年中国共産党に入党。解放後,戯劇協会主席になる。「義勇軍行進曲」(国歌)の作詞者。1968年12月10日死去。71歳。湖南省出身。東京高師中退。戯曲に「関漢卿(かんかんけい)」「白蛇伝」など。

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普及版 字通 「田漢」の読み・字形・画数・意味

【田漢】でんかん

田舎者。

字通「田」の項目を見る

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367日誕生日大事典 「田漢」の解説

田 漢 (でん かん)

生年月日:1898年3月12日
中国の劇作家
1968年没

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世界大百科事典(旧版)内の田漢の言及

【義勇軍行進曲】より

…中華人民共和国国歌。田漢作詞,聶耳(じようじ)作曲。本来は,抗日に立ち上がる青年詩人を描いた映画《風雲児女》(1935)の主題歌であったが,抗日戦争期に勇壮なそのメロディーが広く人々の心をとらえたことで,代表的な革命歌曲となり,新中国成立とともに国歌に指定された。…

【創造社】より

…中国,現代の文学団体。1921年に郭沫若,郁達夫,成仿吾,張資平,田漢らによって日本で結成された。初期には個性尊重の芸術至上主義的傾向が強かったが,24‐25年ごろから周全平ら新人が加わり,社会問題への関心が強まる。…

【中国文学】より

…30年の中国左翼作家聯盟(左聯)の成立によって,プロレタリア文学運動はひとまず定着をみせたが,たちまち国民党の過酷な弾圧に遭い,31年には5人の所属作家が銃殺された。左聯は魯迅を事実上の指導者として厳しい後退戦を続けたが,闘いを通じて若い文芸家を数多く育て,そのうち周揚,夏衍(かえん),田漢,陽翰笙(ようかんしよう)などは,人民共和国成立後も長く中国文芸界の指導的地位についた。この間,瞿秋白(くしゆうはく)は,魯迅のかたわらにあって,左翼文芸理論の確立に貢献した。…

【話劇】より

…演劇学校をおこして演技力の向上をはかるとともに劇作家の育成をはかった。さらにヨーロッパ,アメリカそして日本の留学帰国者たち,熊仏西,余上沅,丁西林,洪深,田漢,さらに春柳社の一員で京劇俳優の欧陽予倩が加わり,ヨーロッパ的手法によった話劇の劇団を組織して,内容の深い芸術的な演劇を志した。28年に田漢は洪深らと上海芸大などの学生を中心に南国社をつくり,南京で好評を博し広州まで南下したが,まもなく反帝国主義,無産主義の立場から田漢の作品は芸術におぼれ庶民と遊離しているとの内部批判がおこった。…

※「田漢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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