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欧陽予倩 おうようよせん Ou-yang Yu-qian

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

欧陽予倩
おうようよせん
Ou-yang Yu-qian

[生]光緒15(1889).5.1.
[没]1962.9.21.
中国の劇作家。瀏陽県 (湖南省) の人。本名は立袁。在日中,中国人留学生で劇団「春柳社」を組織,帰国後も新劇活動を続けて創作にも励み,1928年田漢と劇団「南国社」を結成した。 36年映画界に入り,脚本家,監督として活躍。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

欧陽予倩 おうよう-よせん

1889-1962 中国の劇作家,俳優,演出家。
光緒(こうしょ)15年5月1日生まれ。来日して,早大などでまなぶ。明治40年在日中国留学生の劇団春柳社に参加。44年帰国し,京劇の女形俳優として活躍。また封建道徳や貧富の差を風刺した60編ちかくの作品をのこし,京劇や地方劇の改良にもつくした。1962年9月21日死去。74歳。湖南省出身。名は立袁。号は南傑。作品に「あばずれ女」「人面桃花」など。

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世界大百科事典 第2版の解説

おうようよせん【欧陽予倩 Ōu yáng Yǔ qiàn】

1889‐1962
中国の俳優。日本留学中に河合武雄の影響をうけ,1907年,前年東京で結成された中国最初の新劇団春柳社に参加した。少年期から京劇を愛し,27歳で専業俳優となって梅蘭芳と並び南欧北梅と称されるほどだった。田漢,洪深らと22年に上海戯劇協社を創立。30年代より左翼演劇運動に入り南中国各地で活躍した。旧劇の大衆性を重視する立場から,旧劇の改革,俳優の教育に尽力し,学校や研究所を設立,指導した。解放後は戯劇家協会副主席をつとめた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

欧陽予倩
おうようよせん / オウヤンユチェン
(1889―1962)

中国の劇作家、俳優、演出家。湖南(こなん/フーナン)省瀏陽(りゅうよう)県出身。成城中学、早稲田(わせだ)大学等に留学。1907年(明治40)在日中国留学生の劇団春柳社に参加、演劇活動は以後生涯にわたった。「南の欧陽(オウヤン)、北の梅蘭芳(メイランファン)」と並び称される京劇女方でもあった。封建的道徳を否定し女性の尊厳を主張した『溌婦(じりつ)』(1922)、『車夫の家』(1929)、ストー夫人『アンクル・トムの小屋』の脚色『黒奴恨(こくどこん)』(1959)、京劇『人面桃花(はなのかんばせ)』(1920)、日本へのレジスタンスを歌詞に折り込んだシナリオ『木蘭従軍(もくらんじゅうぐん)』(1938)など、作品は60編に近い。テーマ、題材ともに幅広く、旧道徳、貧富の差などを鋭く風刺している。京劇、地方劇の改良や演劇人教育で果たした役割も大きい。[中野淳子]

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