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中国文学 ちゅうごくぶんがくChinese literature

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

中国文学
ちゅうごくぶんがく
Chinese literature

中国語で書かれた文学作品の総称。 3000年以上続く歴史を誇り,表意文字である漢字を用いることによる,さまざまな特徴をもつ。中国文学は政治の動向と常に結びついているが,これは文学がよりよい政治への貢献をなすべきとする戴道主義があるためと,文学に用いられる漢字の数が『康煕字典』によれば親字4万 7035字,さらに古代の異体字 1995字もあり,しかも長年美文体などの形式を重んじたため,教養を身につけた者でなければ,文学に親しめない事情があったからと思われる。思想的には儒教的文学観と老荘文学観が主流を占めた。また,中国語は単音孤立語であるため古来対句が生れやすく,文章において四六駢儷 (→駢文 ) ,詩においては五言律詩,七言律詩のような文学が生じた (→律詩 ) 。さらに同音異義が多いため,口語での混乱を避ける目的から四声 (音節の声調) が発達した。この声調という特徴があるため,音楽と文学 (特に演劇と詩) が強く結びついた。もともと中国の詩は音楽に合せて歌われた伝統から,詩は特に朗読よりも詠唱されることが多かった。中国の各時代の文学を代表するものは,漢文,唐詩,宋詞,元曲といわれる。
中国最古の詩集は,孔子の時代 (紀元前 500) 頃に生れた『詩経』である。これは周代 (前9~前7世紀) にかけての寺院,宮廷,各地の民謡をまとめたもので,漢代になってから儒教の教典の一つとして尊ばれた (→五経 ) 。同じく五経の一つ『易経』は占いの理論と方法を記したもので,後年西洋の占い師の間で人気を集めた。これらの書は作者名が不明である。名前が判明している最古の詩人は紀元前 300年頃の屈原で,代表作とされる『離』は,空想の中で天地の涯てまで遍歴し,政治と失恋を結びつけて歌ったものである。浪漫的な作風で,現実的な『詩経』と対照的といえる。
初期の散文作品としては,哲学者の思想を後世の人間がまとめた『論語』『老子』『孟子』などがある。また左丘明によるといわれる魯を中心とする編年体の歴史『春秋左氏伝』,漢代の司馬遷による紀年体の歴史書『史記』は中国文学のなかでもすぐれた作品の一つである。漢代には,こうした散文とともにが文学の王座を占めた。また漢の武帝は宮廷や寺院の儀式で用いる詩と楽譜,民謡や素朴な歌を収集し保存することに熱心であり,そのために楽府という官署を設けた (紀元前 120) 。作家がこれらの歌から着想を得ることも多く,のちに中国の韻文のジャンルそのものが楽府と呼ばれるようになった。魏,晋,六朝にいたっては五言詩が興り,老荘思想が流行した。
唐代は五言詩,七言詩に天才が輩出した時代である。この時代に活躍した中国最高の詩人杜甫は,政治,社会勢力に対する鋭い観察,強い倫理観を表現した。五代十国から宋代には,が文人たちによって好んでつくられた。続く元代は,北方異民族の統治下にあって元曲が盛んに行われた。
明代になると,白話 (口語) 小説が続出した。清代では中国最高の小説といわれる曹雪芹作『紅楼夢』が生れた。また清末には多くの才能と努力が西洋文学の翻訳に向けられ,西欧の近代文芸思想が中国に紹介された。やがて辛亥革命を経て,旧来の封建的なものを打破する白話運動がアメリカで学んだ胡適などにより展開されたが,たちまち革命文学へ向い,次いで抗日戦争中の国防文学,そして今日の人民文学へと進んだ。近年では文革期の傷跡や愛をテーマとした作品も発表され,作家は創作の自由を求めはじめている。

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デジタル大辞泉の解説

ちゅうごく‐ぶんがく【中国文学】

中国で発達した文学。20世紀初めの文学革命以前の古典文学と、以後の現代文学に大別する。前9世紀ごろの詩を含む「詩経」を最古の作品とし、詩文にすぐれた作品が多いが、代以降は小説や戯曲も発達した。古典文学は日本文学に大きな影響を与えた。

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世界大百科事典 第2版の解説

ちゅうごくぶんがく【中国文学 Zhōng guó wén xué】

中国の文字で書かれた記録・資料の最も古いものは,紀元前13世紀にさかのぼる。その時代から現代にいたるまで約3000年間の文学の発展を五つの時期に分けて述べよう。
【古代(西周および春秋戦国時代――前11~前3世紀末)】
 中国文学の源流は二つある。一つは史官の文学,他は巫(ふ)の文学である。文字(漢字)が作り出されたのはごく古く,前20世紀以前だと思われる。今日残存する最古の記録は殷代の〈卜辞(ぼくじ)〉であるが,それに用いられた漢字は単純な絵文字ではなく相当進歩した段階にあった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国文学
ちゅうごくぶんがく

中国文学の範囲と特質


 一般的にいえば、中国文学は、漢民族を主体とする中国の、漢語とそしてその表記文字の漢字とを用いて表現される文学をいう。もともと中国は漢民族のほかに多くの民族が共存する一種の多種族集合の国家であり、漢語・漢字とは異なる言語・文字を用いる民族が古代から現代に至るまで存在する。そして、それぞれの民族にそれぞれの文学の伝承がないわけではないが、前近代の中国では漢民族の文学以外はほとんど重視されなかったし、重視する必要もなかった。なぜならば、中国歴史の全期間を通じて、文学はもとより、学術・文化の担い手は絶えず漢民族であったからで、たとえ政治的に非漢民族に支配された時期、たとえば元(げん)や清(しん)などの時代にあっても、この基本的な状況に変わりはなかった。ときには非漢民族の文学が漢語・漢字に移されて漢民族の文学に取り込まれることがあったが、それは相対的にごくわずかであり、むしろ逆に漢民族のそれに同化するという過程が普通であった。
 すなわち、中国文学は、漢語・漢字文化の一つとして、漢民族を中心に長い独自の発展を遂げてきたのであり、他の民族、あるいは他国からの影響をほとんど受けることのない孤立した存在であったのである。中国文学が異質の文学の影響を受けて確実に変容するのは20世紀初めの文学革命以後といってよい。古典文学においては、漢字文化圏の朝鮮半島や日本などの近隣諸国に大きな影響を与えこそすれ、それ自体は約3000年にわたり排他的な独自性を保持したという点で、世界文学のなかでもまれな存在である。地理的あるいは民族性など諸原因が考えられるが、この孤立の独自性がその第一の特質である。
 第二の特質は、漢語・漢字を媒体とする文学であるという点で、基本的には単音節語である漢語・漢字、そして表意性豊かな漢字の特性を生かした独自のリズムとイメージをもつ文学形式をつくりだした。だが一方では、膨大な数に上る複雑な漢字を理解するのに多くの努力を必要としたため、漢字が少数の知識人の独占物となり、古典文学の伝承が一部の人々に限られたことは否定できない。この状況の変革もまた文学革命を待たなければならなかった。
 知識人が文学の主たる担い手であったことと、中国文学が概して現実性を尊び、政治的色彩が濃いということとは無縁ではない。この第三の特質の背景には、漢代以降、中国知識人の思想形成の根底となった儒家思想の存在がある。文学革命以前の中国の文学観は、現実政治と密接に関連する儒家思想ぬきでは考えられない。
 そのほか、尚古主義、伝統の重視と、それらの反覆と持続とを第四の特質に数えることができる。以上の特質は、いずれも古典文学を中心に述べたものであり、近・現代文学はそれらの否定から出発したのであるが、文学の政治的側面の重視などは、質的にはまったく異質ではあるものの、共通する性格のようにみえる。[佐藤 保]

中国文学の歴史


 前述したように、中国文学は20世紀初頭の文学革命を境に質的な変化を示している。文学革命前後の清(しん)末までを古典文学、それ以後を近・現代文学と分け、近・現代文学はさらに中華人民共和国成立以後を当代文学とよぶこともあるが、それぞれ便宜的にさらに細かく時期をくぎって述べていくことにしよう。[佐藤 保]
先秦文学
北の黄河(こうが/ホワンホー)流域と南の長江(ちょうこう/チャンチヤン)(揚子江(ようすこう))流域に世界最古の文明の一つをつくりあげた中国人の祖先は、農耕生活を送りながら、労働歌ともいうべき歌謡を生み出した。豊作の祈願、収穫の感謝、農作業をしながらの励ましや慰めなど、数多くの歌がうたわれていたに相違ない。いまそれらのほとんどは歴史のかなたに埋没して伝わらないが、古い文献のなかに断片的にみえる記載から、われわれは古代中国人の歌謡のありようを推測することができるのである。他の国々の文学と同じく、中国文学の源もやはり生活に深く根ざした歌謡であった。
 歌謡はもともと、人々に覚えやすい韻律、すなわちリズム(節拍)とライム(押韻)をもつのが普通である。口承に適したその形は、文字が未発達の段階では重要な伝達の形式であった。たとえば、紀元前1300年ころにいまの河南省安陽市に都を置いた殷(いん)の遺跡から大量に発見された卜辞(ぼくじ)(亀甲や獣骨に刻まれた卜占(ぼくせん)のことば)、あるいは前1000年ころ陝西(せんせい)省長安の付近に都を定めた周王朝の建国の記録集『書経(しょきょう)』(尚書(しょうしょ))など、古い記録や文献のそこかしこに歌謡的な口承の形跡を見て取ることができる。もちろんそれは、後の文学形式としての韻文に比べれば、リズムもライムも単純素朴なものであり、そもそも古代中国人には「文学」をつくるという意識はまったくなく、いわば必要上から生まれた知恵であったのであるが、長い間の経験を蓄積して一つの歌謡形式をつくりあげた。それが中国最古の歌謡集の『詩経(しきょう)』である。『詩経』は北方の黄河流域でうたわれていた歌謡を集めた書物であり、四言(しごん)のリズムを基調とし、様式はさまざまではあるが、押韻を必須(ひっす)の条件とする。ほぼ前600年ころには現存する書物の形ができあがっていたと考えられ、前1000年ころの周の建国のときからの歌謡が収められている。とりわけ『詩経』の収録作品の過半数を占める「国風(こくふう)」の歌は、周王朝各地の民衆の生活ぶりを生き生きと伝え、後世の文学者に少なからぬ影響を与えた。『詩経』が北方の黄河流域の歌謡であるのに対して、南方の長江流域にも『詩経』の歌謡とは異なったリズムをもつ独特の韻文が発達していた。『詩経』のそれに比較してはるかに複雑な形式をもつ南方歌謡は、当時その地方が楚(そ)とよばれていたのにちなんで、のちに「楚辞(そじ)」と称されるようになったが、それが明確に文学史に登場するのは先秦(せんしん)時期の最後、戦国時代の末期に屈原(くつげん)が出現してからである。屈原の作品は彼の悲劇的な生涯から生み出され、中国文学が初めてもった個性的な文学であった。
 この時期、主として春秋時代に成立した周王朝の記録や教訓書――儒家によって「経書(けいしょ)」とよばれる一群の書物――および戦国時代の諸子百家の活躍から生まれた多くの書物は、いずれも政治的あるいは教訓的な目的によって編まれたもので、文学とは直接のかかわりをもたない。『詩経』もまた儒家の人々に経書として尊重され、一種の政治的・倫理的な意味、つまり民謡は政治の直接的な反映であり、政治を考えるための貴重な情報源であること、ひいては文学と政治とは切り離せなく、倫理的道徳とも不可分の関係にあるという観念を付与することになった。この儒家的な文学観が以後の中国文学を長く支配したのである。しかしながら、それらの経書、とくに戦国諸子の書物に顕著にみられる明晰(めいせき)な論理性、そして説得のための比喩(ひゆ)の技巧は、後世の文学の修辞の源泉として大きな意味をもっていた。
 中国の神話・伝説の乏しさはしばしば指摘され、それは非現実的なものを極力排除した儒家の責任に帰せられているし、おそらくそれらの指摘は正しい。しかし近年、神話研究者によって中国古代神話の発掘と整理が進められており、それらの研究によれば、かならずしも他の国に比べて乏しいわけではない。すでに、多くの書物に断片的に伝えられている神話・伝説を丹念に拾い集めて、農耕民族としての古代中国人の生活に根ざした空想世界が、生き生きと浮かび上がりつつある。[佐藤 保]
秦・漢文学
秦が天下を統一した紀元前221年から漢の滅亡する紀元後220年までの約400年の時期――この時期の文学の特色は、「賦(ふ)」の成立と「楽府(がふ)」の流行、そして「史伝文学」が生まれたことである。強力な軍事力を背景に戦国諸侯を次々に征服し、天下の統一を果たした秦の始皇帝は、政治体制の変革と同時に文字や度量衡などをも統一して、その後の文化および社会経済の統一的な発展の基礎をつくったが、あまりにも急激な変革は結局政治の破綻(はたん)をきたし、秦王朝は短命に終わった。秦の文学にはとくにみるべきものはなく、文学の大きな進展がみられるのは、次の漢王朝に入ってからである。
 漢の人々が愛好したのは南方の楚辞の歌謡で、屈原の後を継ぐ多くの作家が現れた。そして、その楚辞の歌謡からより修辞にくふうを凝らし華麗な言語を駆使する新しい文学形式が生まれた。「賦(ふ)」あるいは「辞賦(じふ)」ともよばれる形式がそれである。壮大な帝国のさまざまな事象を描写する長編の叙事的韻文は、大帝国をつくりあげた漢の王朝文学として大いにもてはやされ、帝国が最大になった武帝のときに活躍した司馬相如(しばしょうじょ)によってその文学的な地位が確立した。賦は前後両漢を通じて流行し、揚雄(ようゆう)、班固(はんこ)らの優れた作家が現れて、内容と形式にいっそうのくふうが加えられていった。
 一方、当時、民間には『詩経』の歌謡や楚辞とは違った新しい歌謡が流行していた。この種の歌謡を「楽府」というのは、当時その採集と整理にあたった役所の名にちなむ。知識人が楽府に関心を寄せ、やがて自分たちも模倣し始めたのは、前述の儒家的な文学観に由来するのはもとよりとして、なによりもまずその新鮮な魅力にひかれたためであろう。楽府のメロディーは時代が下るとともに忘れられ、消滅していったし、逆に新しいメロディーも次々に生まれていったが、楽府の愛好ははるか後世にまで続き、しかも詩歌の革新のときにはいつも漢代楽府が想起され、それへの復帰が叫ばれたのである。
 楽府の形式は多様であり、長短句の混ざった複雑な形をもつものが少なくない。しかしそのなかで五言(ごごん)のリズムがとくに人々に好まれて、やがて五言詩の形式ができあがった。そのもっとも初期の作品が「古詩十九首」である。
 この時期、散文の成長も忘れてはならない。先秦時期の多くの文献はほとんど漢の時期に整理され、再編され、また注釈が書かれたが、戦国時代の諸子百家によってくふうされてきた散文は、この時期に一段と進展した。その代表的なものが、「史伝文学」ともよばれる前漢の司馬遷(しばせん)の『史記(しき)』と後漢の班固の『漢書(かんじょ)』などの歴史記述である。とくに前者は、歴史書として単なる事実の記録にとどまらず、深い人間洞察に基づき歴史のなかの人間像を生き生きと描き出すことに成功した。[佐藤 保]
魏・晋・南北朝文学
後漢(ごかん)末の政治的混乱から魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の三国に分裂した三国時代、中国の北半分を異民族が支配した南北朝を経て、隋(ずい)が全国を統一する589年までの400年ほどが、この時期である。相次ぐ政権の交代と異民族の侵攻とによって生じた社会不安のなかで、人々は苦難の日々を送った時期ではあったが、文学のうえでは五言詩や楽府の流行、駢文(べんぶん)とよばれる美文体の完成、さらには独立した文学意識の芽生えなど、この時期の収穫はけっして少なくない。
 魏の曹操(そうそう)・曹丕(そうひ)・曹植(そうしょく)の曹氏父子は、政治のみならず、文化の中心にも位置していて、彼らの周囲に数多くの文学者が集まってきた。曹氏父子を中心とする人々の関心事は、前代におこった五言詩に自分たちの感情を盛り込むことにあり、修辞に富む個性的な叙情詩をつくりだすことに成功した。曹氏父子とともに五言詩の革新に功績のあった王粲(おうさん)・陳琳(ちんりん)(?―217)など7人の文学者を「建安七子(けんあんしちし)」とよぶ。
 五言詩の流れは、その後、思索的な内容を「詠懐詩(えいかいし)」に歌った「竹林の七賢(ちくりんのしちけん)」の一人である魏の阮籍(げんせき)、田園の美を発見した晋(しん)の陶潜(とうせん)(あるいは陶淵明(えんめい))など、優れたわずかな詩人たちの努力によって詩的世界を広めはしたが、漢民族が江南に逐(お)われた南朝の時期には、貴族や豪族が女性の美しさをうたう「宮体詩(きゅうたいし)」と山水自然の美を描写する「山水詩(さんすいし)」を大量につくり、詩句を練り上げてもっぱら言語表現の美しさを追求することになった。ただそのなかで、詩の音楽性に注目した斉(せい)の沈約(しんやく)らの韻律の探求が、やがて唐代に入って律詩(りっし)や絶句(ぜっく)などのいわゆる「近体詩(きんたいし)」(今体詩)を生み出すのである。
 このような詩の修辞化の傾向は、当時、賦から派生した修辞的な美文の駢文の流行と軌を一にする。耽美(たんび)的な美文学への関心は、梁(りょう)の昭明太子(しょうめいたいし)の編んだ『文選(もんぜん)』の詩文の選択、同じ梁の徐陵(じょりょう)の『玉台新詠(ぎょくだいしんえい)』の艶詩の収集に反映されている。
 楽府の流行もまたこの時期の特色の一つであるが、男女の恋愛など繊細な情感を歌った南朝楽府に対して、北朝の楽府は素朴で力強く、長編の叙事詩的な作品もつくられた。
 この時期の注目すべき事柄として、文学に独自の価値を認め文学に携わる意義を自覚する言論が現れたことである。曹丕の「典論論文」あるいは晋の陸機(りくき)の「文賦(ぶんぷ)」などは、従来かならずしも重視されていなかった文学の独立宣言ともいうべきものであろう。この空気を受けて、梁(りょう)の時代には中国最初の文学評論である劉(りゅうきょう)の『文心雕竜(ぶんしんちょうりょう)』、詩論である鍾(しょうこう)の『詩品(しひん)』が書かれた。
 またこの時期には、人々の行動や珍しい事柄に対する関心が高まり、有名人の逸話を記録した『世説新語(せせつしんご)』(宋(そう)・劉義慶(りゅうぎけい)、403―444)、民間に伝わる怪奇な話を集めた『捜神記(そうじんき)』(晋・干宝(かんぽう))など、多くの書物が現れた。後者の類(たぐい)の話を「志怪(しかい)小説」とよぶ。[佐藤 保]
隋・唐・五代文学
約290年続いた唐代を挟んで、前後400年ほどのこの時期は、中国詩の最盛期である。南北に分裂していた中国を再統一した隋(ずい)王朝は、南朝文化の華美を是正しようと努力したものの、さしたる効果をみないまま短命に終わり、唐の初期にまで南朝文化はそのまま持ち越された。
 文学の状況もまた同様で、初唐期はおおむね南朝風の詩文がもてはやされた時期である。しかししだいに新しい時代の新しい文学の要求が強まってきて、詩の革新が行われた。初唐期末の陳子昂(ちんすごう)が復古を唱えて南朝の詩の無内容な修辞的傾向を批判し、その皮切りとなった。それを受けて盛唐期には、王維(おうい)、李白(りはく)、杜甫(とほ)などの優れた才能をもつ詩人たちがそれぞれ個性的な作品をつくり、中国の詩は飛躍的な進展を遂げた。また、南朝以来の積み重ねられてきた韻律のくふうから「近体詩」の詩形が完成し、それまでの詩と明瞭(めいりょう)に区別されるようになったのも、この盛唐期である。唐以前の詩を「古体詩」とよぶが、唐以後は「近体」と「古体」の二つが併存することになった。
 盛唐期を過ぎて唐王朝の勢力がしだいに下降をたどってくるにしたがい、詩の活力もまた下降に向かい、細やかな修辞的表現のほうに詩人たちの関心が向いていった。このような詩の流れに対して、中唐期、白居易(はくきょい)がかつての漢代楽府の生気に着目して「新楽府」を創作し、詩の革新を唱えた。同じころ、韓愈(かんゆ)は、南朝以来ますます美文化の色彩を強めていた駢文に反対し、「古文」を主張して文体の改革に乗り出した。白居易と韓愈の主張は詩文の違いはあっても、底を流れる復古の精神は一脈相通ずるものがあったのである。だが、詩文の耽美化の傾向はもはや押しとどめようもなく、中唐期から晩唐期にかけては繊細な唯美的風潮が一般的となった。詩人たちはむしろ、中唐期ころから民間に広まってきた新しい叙情歌曲の「詞(し)」にしだいに興味を示すようになり、その創作に努力する者が現れてきたのである。詞は五代の時期に大いに発展し、次の宋代では主要な文学形式の一つとなった。
 唐代ではさらに、「伝奇(でんき)小説」とよばれる小説が流行したことでも知られている。それは南朝の「志怪小説」とは違って、虚構性を意識した一種の創作物語であり、作者のほとんどは知識人で、きちんとした文言(ぶんげん)文(文語体)で書かれているところから、韓愈の古文運動ともかかわりをもっていたのである。また、唐代における仏教の浸透を反映して、一般民衆に仏教の教義をわかりやすく語り聞かせるための口承文芸である「変文(へんぶん)」が生まれた。それは俗講(ぞくこう)ともよばれ、俗講僧がその語り手であった。20世紀の初め、西の砂漠の中の町、敦煌(とんこう)で大量の貴重な文書が発見されたなかに多くの「変文」の写本が含まれていて、その実体が明らかになった。[佐藤 保]
宋・金文学
北宋(ほくそう)、そして北半分を金(きん)に占領された南宋の300年余りのこの時期は、中国の古典文学の一つの転換期であった。
 まずは文学者の社会的地位の変化である。それまでも詩をつくり文を書く才能は知識人に必須の教養として重視され、優れた才能は人々の高い評価を受けてきた。とくに唐代では科挙の試験に詩の科目が取り入れられ、文学的才能の有無は官界入りを左右することにもなった。しかしながら唐代では、文学的才能の評価と社会的な地位はかならずしも一致しない。文学の才能が出世を約束していたはずの科挙においても、卓抜な才能はしばしば理解されずに無視されがちであった。多くの唐詩人の不遇の一生が、そのなによりの証拠である。それは、旧来の門閥貴族や豪族が政治の主導権を握っていた社会では、文学に対する評価基準が相対的に低かったからにほかならない。状況の変化は、盛唐期の末に起こった安史(あんし)の乱(755~763)以後、貴族階級の没落とともに徐々に生じ、宋に入って文官優遇の政治体制がとられると決定的となった。科挙受験者の文学の才能はいわば正当に評価され、社会的地位も保証されるようになったのである。北宋の中期、欧陽修(おうようしゅう)をはじめ王安石、蘇軾(そしょく)など、文学的才能の豊かな新興知識階級の人々が、政界においても活躍するようになった。
 彼らが開拓した宋詩の世界は、唐詩が情熱的で感覚的な発想や表現を尊んだのに比べて、理性的であり、冷静な日常的観察のなかから淡々と身辺に起こるさまざまな事柄を歌った。なかには南宋の陸游(りくゆう)のように、祖国の屈辱的な状況を情熱的に歌った人もなかったわけではないが、北宋の末におこった「江西派(こうせいは)」の詩風は平易を旨として広く人々に受け入れられ、詩の大衆化に大きな役割を果たした。宋詩は一般に感情表現において抑制が働いていて、「理知」と「平淡」をその特色とする。また、詩人たちが結社的結合を強めていったこと、詩と同時に詞が盛んにつくられるようになったことなどは、北宋から南宋に入ってより顕著となった傾向であり、やがて南宋のなかばには詩を売って生計をたてる職業詩人が出現した。文は、この時期、韓愈の提唱した古文が主流である。
 元好問(げんこうもん)に代表される金の文学状況も、ほぼ宋のそれに等しいが、漢民族の抑圧の状況を反映してしばしば感情的な唐詩への接近を示す。
 次に注目すべき文学の転換は、大衆文芸ともいうべき通俗文学の発達である。宋代の江南を中心とした社会経済の発展は都市の消費経済を飛躍的に進展させ、市場が大いににぎわった。その結果、都会の市場の盛り場には、講談の一種の「説話(せつわ)」、歌舞劇、影絵芝居や人形劇、曲芸などの種々の大衆芸能が行われ、人々を楽しませた。それらが次の時期に入ると通俗文学として大きく成長することになる。[佐藤 保]
元・明・清文学
約600年にわたるこの時期は、古典文学の最後の時期である。詩文、それに詞の形式にはもはや新たな発展はなかったものの、作者の層は一般庶民をも含んで大いに広がった。詩はしばらく宋詩の影響が持続するが、明(みん)代に前後七子(しちし)(七才子)の人々が盛唐詩に学ぶことを主唱し、ふたたび唐詩風の詩が流行した。しかし、清(しん)朝の末には宋詩風が一時復活する。総体的に宋代までみられた生気は薄れてゆき、清朝の王士(おうししん)(あるいは王士禎(おうしてい))、袁枚(えんばい)など優れた叙情の詩人も現れなかったわけではないが、平板化と形式化の流れは、すでに抑えようがなかった。文もやはり、全般的に魅力に乏しい。明代に流行した形式主義的な「八股文(はっこぶん)」の弊害を救うために清朝の人々によって復古的な「桐城派(とうじょうは)」古文が主唱され、広く盛行したものの、清末にはそれ自体が形式化のそしりを受け、文学革命では打倒の対象とされたのである。むしろ、実りが多かったのは通俗文学のほうで、「元曲(げんきょく)」あるいは「元雑劇(げんざつげき)」とよばれる元代の戯曲、そして明代の長編白話(はくわ)小説がそれである。元曲はもともと宋・金の歌劇に由来する演劇であるが、明・清にはさらに「伝奇」とよばれる戯曲へと進展した。『水滸伝(すいこでん)』『三国志演義(さんごくしえんぎ)』『西遊記(さいゆうき)』などの明代の長編小説は、いずれも口語(白話)で書かれているところに特色があり、これらもまた宋代の語り物「説話」に淵源(えんげん)をもつ。これらの長編小説をつくりだした経験が、やがて清朝の『紅楼夢(こうろうむ)』や『儒林外史(じゅりんがいし)』などを生み出すもととなった。古典文学の最後の時期である清朝は、きわめて学術的な雰囲気の色濃い時期でもあった。そのため、清人は自ら詩文の創作にあたるかたわら、前代までの古典文学の収集整理と注釈の作業に情熱を傾けたのである。『全唐詩(ぜんとうし)』『全唐文(ぜんとうぶん)』『宋詩鈔(そうししょう)』『元詩選(げんしせん)』『明詩綜(みんしそう)』など、現存する中国古典文学の諸作品および注釈は、清人の努力に負うところが少なくない。とりわけ、中国に伝わる書物全体を総合的にまとめる四庫全書(しこぜんしょ)館を開設し、それぞれの書物に書誌学的考察を加えた『四庫全書総目提要(しこぜんしょそうもくていよう)』の編纂(へんさん)は、清朝学術の輝かしい成果であった。
 清朝の人々は、さながら、長く閉鎖的に成長してきた中国古典文学の最後の総決算を行ったかにみえる。固い閉鎖の殻を破ったのは、たび重なる西欧諸外国からの働きかけと、古典の世界に飽き足らなくなった先覚者の努力であったが、清末の黄遵憲(こうじゅんけん/ホワンツンシエン)、梁啓超(りょうけいちょう/リヤンチーチャオ)などが、きたるべき文学革命の準備をしたのである。[佐藤 保]
近・現代文学
アヘン戦争(1840~1842)の敗北を契機に、それまで閉鎖された天下であった中国は、西欧列強の脅威にさらされ、国内でも太平天国(1851~1864)が起こるなど、体制そのものの動揺が顕著になった。それを反映して、思想界では、体制内の変革から清朝打倒の革命を目ざすものまで、多くの潮流が相次いでおこった。文学界でも詩に新しい内容を盛る「詩界革命」の運動や、梁啓超らによる政治小説の提唱、それを受けた現実暴露小説の流行など、古典文学の枠を破る動きがようやく盛んとなった。ただこれらは、まだ文学としての質は古く、近・現代文学への胎動にとどまっていた。このなかで、厳復(げんふく/イエンフー)による西洋近代思想の翻訳、林(りんじょ/リンシュー)による西洋近代小説の翻訳・翻案は、その後の知識人の思想形成に大きな影響を及ぼした。[丸山 昇]
文学革命始まる
実質的な近・現代文学の出発は、1910年代後半の「文学革命」に始まる。陳独秀(ちんどくしゅう/チェントゥーシウ)の創刊した雑誌『新青年』を中心に、反儒教と口語文提唱を柱として展開された文化・思想運動で、不完全な革命であった辛亥(しんがい)革命(1911)以後の反動に抗し、新共和国の文化的実質をつくりだす動きでもあった。口語文学を提唱した胡適(こてき/フーシー)、それを「文学革命」の運動に広げた陳独秀、『狂人日記』(1918)をはじめとする小説で、文学革命に実質を与えた魯迅(ろじん/ルーシュン)らの役割が大きい。文学革命は、五・四運動(第一次世界大戦中に日本が行った「対中国二十一か条要求」とそれをベルサイユ平和会議で、列強が追認しそうな情勢に抗議して、1919年5月4日に北京の学生・民衆が行ったデモおよびそれに端を発した運動)や中国共産党成立(1921)を思想的に準備し、文学研究会、創造社などの文学団体がこのなかで生まれて、近・現代文学の基礎がつくられた。
 中国の近・現代文学は、民族の置かれた危機的状況や民衆の貧困など厳しい現実に取り巻かれていたため、当初から現実への強い関心を特色とした。「人生派」とよばれた文学研究会だけでなく、「芸術派」とよばれロマンチシズムの色の濃い創造社にしても、現実への関心は強く、そのロマンチシズムは現実への批判の変形でもあった。文学研究会系に周作人(しゅうさくじん/チョウツオレン)、沈雁冰(しんがんひょう/シエンイエンピン)(茅盾(ぼうじゅん/マオトウ))、葉紹鈞(ようしょうきん/イエシャオジュン)、謝冰心(しゃひょうしん/シエピンシン)、許地山(きょちざん/シュイディシャン)(落華生)ら、創造社に郭沫若(かくまつじゃく/クオモールオ)、郁達夫(いくたつふ/ユイターフー)らがいる。[丸山 昇]
革命文学と「左連」の成立
1920年代なかばにかけての五・四運動退潮期から、五・三〇事件(1925年5月30日に上海(シャンハイ)で起こった民衆の反帝国主義運動)を経て、国民革命に至る時期には、知識人の分化が進んだ。一方では、文学と革命との結合を提唱する動きが強くなり、郭沫若、茅盾ら自ら革命に参加した文学者も少なくない。このような文学の政治性は、程度と形式の差こそあれ、中国近・現代文学の根本的性格ともいいうるものである。一方、胡適らに代表される文化主義的傾向も、とくに詩にみられる芸術至上的傾向も、時期によりその程度と役割を複雑に変化させながら、一つの流れとして存在を続けた。
 1927年、蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)の反共クーデターで国民革命が挫折(ざせつ)したのち、国民党の反動化への反発として、創造社、太陽社などがプロレタリア文学を唱えた。彼らは魯迅や茅盾に小ブル文学者という非難を浴びせ、魯迅らもこれに反論して「革命文学論戦」が起こったが、これを通じて、新たな統一を求める動きが生まれ、1930年、中国左翼作家連盟(左連)が成立した。左連は国民党の弾圧に抗しつつ運動を続け、多くの若い作家を生んだ。彼らは多くが中・下層知識青年だったが、9割を超える民衆が字が読めなかった中国で、民衆にかわって声をあげた意味は大きく、「文芸大衆化」の努力もなされた。その運動は国民党の弾圧に妨げられ、当時の中国共産党の極左路線の影響もあって、豊かな作品は数多くは生まれなかったし、民衆に直接広く受け入れられるには至らなかったが、1930年代の文学の強力な流れを形成し、また1940年代以降の中国文学の中心となった作家・批評家の多くが、このなかから生まれた。左連の作品としては、頂点に茅盾『子夜(しや)』(1933)があげられるほか、蒋光慈(しょうこうじ/ジアンクワンツー)、丁玲(ていれい/ティンリン)、艾蕪(がいぶ/アイウー)、沙汀(さてい/シャーティン)などがあり、また蕭軍(しょうぐん/シヤオチュン)、蕭紅(しょうこう/シヤオホン)など、東北出身で日本支配下の「満州国」から本土に逃れた作家の作品も、流れとしてはこのなかに位置づけられる。
 左連のほかでも、老舎(ろうしゃ/ラオショー)『駱駝祥子(ロートシアンツ)』(1936)、巴金(はきん/パーチン)『家』(1931)など、中国近・現代文学を代表する作品のいくつかが書かれた。沈従文(しんじゅうぶん/シェンツォンウェン)『辺城』(1934)もこのころの作品である。
 中国近・現代文学を構成する各ジャンルも、ほぼ1930年代までに確立した。散文では、魯迅が鋭い社会批判、文明批評を内容とする「雑感」を生んだのに対して、周作人、兪平伯(ゆへいはく/ユーピンポー)らは、やや文人風の散文をよくした。林語堂(りんごどう/リンユイタン)もユーモアをもった「小品文」を提唱した。これらは、魯迅に現実からの逃避の側面を批判されたが、魯迅の「雑感」と周作人の散文を両極とするこのジャンルには、中国文学の散文の伝統を受け継ぐ多様な作品が生まれ、重要な意味をもつジャンルである。
 詩では、文学革命期の、試みの域を出なかった白話詩に続いて、1920年代に郭沫若、聞一多(ぶんいった/ウェンイートゥオ)、朱自清(しゅじせい/チューツーチン)、徐志摩(じょしま/シュイチーモー)らがいたが、このころ艾青(がいせい/アイチン)、戴望舒(たいぼうじょ/タイワンシュー)、何其芳(かきほう/ホーチーファン)らが出ている。
 演劇は、旧劇から「文明戯」を経て「話劇」が生まれ、1920年代から1930年代初頭にかけて田漢(でんかん/ティエンハン)、洪深(こうしん/ホンシェン)が出ていたが、1930年代なかばの曹禺(そうぐう/ツァオユー)の『雷雨』(1933)などによって近代劇が確立した。[丸山 昇]
抗日戦下の文学
1937年、日本の全面的中国侵略の開始とともに、文学も、日本占領下、国民党治下、共産党治下の三つの地域によって、それぞれ異なった様相を示すことになる。また、1937年以降も太平洋戦争開戦まで、上海の租界地区や英領だった香港(ホンコン)には、ある種の自由が残ったことなど、独特の状況が生じていた。
 日本占領下に残った文学者の代表が周作人で、その動機と行動は単純ではないが、しだいに対日協力の度を深め、戦後「漢奸(かんかん)」として罪に問われた。また、本土に逃れた「東北作家」のほかに、古丁(こてい/クーティン)(1914―1964)、梁山丁(りょうさんてい/リァンシャンティン)(1914―1997)など、「満州国」にとどまって作家活動を続けた者もいた。状況の複雑さに伴って、彼らの仕事もその意図、結果もさまざまだったが、その多くはなんらかの形で日本の文化政策との接触ももたざるをえなかったため、人民共和国建国後は、否定的に評価されたり、無視あるいはタブー視される傾きが強かったが、文化大革命(以下文革と略称)後の1980年代以降、政治的にも文学的にも、複雑さをそのまま客観的にとらえ、学問的に検討しようという流れが強まっている。国民党治下では、重慶(じゅうけい/チョンチン)、桂林(けいりん/コイリン)、昆明(こんめい/クンミン)などが、また太平洋戦争開戦前には香港も、作家のおもな活動の舞台となり、国民党政治の腐敗・矛盾などがおもなテーマとなった。茅盾『腐触(ふしょく)』(1941)、『屈原』(1942)をはじめとする郭沫若の史劇、巴金『寒夜』(1945)、老舎『四世同堂』(1945~1950)などがこの時期を代表する作品である。
 この時期から戦後にかけて、香港・上海では、張愛玲(ちょうあいれい/チャンアイリン)(1921―1996)、蘇青(そせい/スーチン)(1914―1982)等が、多くの小説・エッセイで人気をよんだ。彼らの仕事も、建国後の大陸での評価は低かったが、文革後、過去の評価への反発もあり、香港・台湾での人気の影響も受けて、とくに若い読者に歓迎されている。
 根拠地あるいは解放区といわれた共産党治下では、文学の様相は大きく変わった。根拠地への大量の知識人の移動は、客観条件として知識人と民衆の距離を飛躍的に縮める一方、「解放区」の矛盾に対する知識人の批判的発言も増え、古い幹部や軍と知識人の間の矛盾を顕在化させた。その状況をおもに知識人の意識変革・思想改造を求めることによって解決する理論として出されたのが、延安(えんあん/イエンアン)文芸座談会における毛沢東(もうたくとう/マオツォートン)の「文芸講話」である。これは、文学が人民に奉仕すべきこと、当時の現実のなかでは普及第一であることなどを説き、文学者がまず大衆のなかに入ること、現にある大衆のために書くこと、を求めその鍵(かぎ)は知識人の思想改造にあることを強調したのものだった。これ以後、この方向に沿って生まれた文学が「人民文学」とよばれる。最初にその代表的作家と目されたのが趙樹理(ちょうじゅり/チャオシューリー)である。また集団創作の歌劇『白毛女』(1945)は、解放区の民衆の広い感動をよんだ。
 広大な民衆が文化から取り残されていた当時の現実のなかで、なによりもまず彼らの目前の要求にこたえる文学・芸術を、と説き、知識人に自らの外の広大な世界に目を向けるよう促した「講話」を、当時の文学者に受け入れさせたのは、政治的圧力ばかりではなかった。「到民間去」(ブ・ナロード、民衆の中へ)というスローガンは、知識人と民衆との文化的格差が大きかった中国社会では、必然性をもったスローガンであり、すでに五・四時期から知識人の内的な課題として意識されていたものでもあった。しかし「講話」は、やはり当時の解放区という特殊な現実から生まれたことによる一面性、単純化を含んでおり、それにもかかわらずその限界は十分に認識されず、さらに中国革命の勝利後、これを絶対化する傾きが生まれて、その後の文学に少なからぬマイナスを生んだ。[丸山 昇]
中華人民共和国成立後の文学
中華人民共和国建国前後から、土地改革その他の大きな社会的変動や新しい現実を背景とする作品が多く書かれ、少なからぬ新作家も生まれたが、一方「講話」からの偏向として批判され失脚した作家も多く、とくに1955年の「胡風(こふう/フーフォン)事件」、1957、1958年の「反右派闘争」と、1965年から10年間続いた「文化大革命」は、作家個々人にも、文学界全体にも大きな傷を残した。
 文革中、老舎、趙樹理など、激しい非難と迫害のなかで死んだ文学者も少なくなかった。また知識人の多くは、労働者・農民出身の作家も含めて、さまざまな理由で批判と迫害の対象となり、機関ごとに設けられた「五七幹部学校」(1966年5月7日の毛沢東の指示によってつくられ、労働を通じての学習・思想改造の機関と称したが、実質的には形を変えた強制収容所に近かった)に送られて労働に従事し、さらには投獄されたものもいた。
 1976年9月の毛沢東の死後間もない10月、文革派の中心人物だった江青(こうせい/チヤンチン)・張春橋(ちょうしゅんきょう/チャンチュンチヤオ)・姚文元(ようぶんげん/ヤオウェンユアン)・王浩文(おうこうぶん/ワンホンウェン)(「四人組」とよばれた)が逮捕され、文革が終了すると、文革路線への批判の深化につれて、1977年夏ごろから文革中失脚していた文学者・芸術家たちの復権が始まり、1978年11月までには「反右派闘争」時に「右派」とされた人々のほとんどが名誉回復、遅れていた胡風も1980年秋には、名誉回復した。
 作品面では、1977年11月に発表された劉心武(りゅうしんぶ/リウシンウー)(1942― )『班主任(クラス担任)』を皮切りに1980年代初頭にかけて、文革の諸側面を暴露・批判する作品が相次いで発表され、この種の作品は、廬新華(ろしんか/ルーシンホワ)(1954― )『傷痕(しょうこん)』(1978)の題名をとって、「傷痕文学」とよばれた。このころは、王蒙(おうもう/ワンモン)(1934― )、劉賓雁(りゅうひんがん/リウピンイェン)(1925―2005)、白樺(はくか/バイホワ)(1930― )、高暁声(こうぎょうせい/カオシヤオシヨン)(1928― )、張賢良(ちょうけんりょう/チャンシエンリヤン)(1936― )など、かつて「右派」とされた作家たちと、(じんよう/シェンロン)(1936― )、張潔(ちょうけつ/チャンチエ)(1937― )など女性の新作家が活発な仕事をみせた。また文革以前からの作家も回想録その他の形で仕事を続けたが、文革中に心身を傷めて、十分な仕事をみせぬままに生涯を閉じた者も多かった。そのなかで巴金が1970年代末から書き始めた『随想録』(1979~1986)は、文革を生み出した社会的・文化的基盤に対する鋭い批判と、それを阻止できなかった自身への思想的・人間的反省の深さで、広い共感と信頼を集めた。
 文革への批判は、さらに「反右派闘争」へ、さらにそれ以前の政治・思想キャンペーンへとさかのぼり、深化する傾向をみせた。これらは一方では文学界全体を活性化したが、他方それに反発し危惧を感ずる層をも刺激し、両者のせめぎ合いは、複雑・隠微な底流として長く続いた。1981年の白樺批判(白樺が1979年に発表した『苦恋』をもとに制作された映画『太陽和人(太陽と人)』に対して、小平(とうしょうへい/トンシヤオピン)の「祖国を否定的に描いている」という批判を契機に起こった白樺攻撃。1981年11月白樺の自己批判で事件は終息した)、1983年の「精神汚染一掃」の提唱、1989年6月の「第二次天安門事件」後の「ブルジョア自由化批判」の強調などが、その表面化したものであった。
 しかし、より深くより豊かに現実をとらえようとする文学者たちの試みは、曲折を経ながらも着実に進んだ。それはときには「意識流」(意識の流れ)をはじめとする20世紀欧米の方法への関心と紹介を通じて、リアリズム偏重の壁を破ろうとする試みとして現れ、またときには、アメリカにおける「ルーツ文学」の流行にならいながら中国の根強い文化的・社会的伝統の負の側面への追求を含んだ「尋根文学(じんこんぶんがく)」として現れるなど、強靭(きょうじん)な生命力を示している。後者の代表的存在が、鄭義(ていぎ/チョンイー)(1947― )、莫言(ばくげん/モーイエン)(1955― )などで、彼らの作品は1980年代以後、世界の注目を引くようになった中国映画の原作となったこともあって、外国にも知られ、高い評価を受けている。
 これら文革終了後の文学は、1990年代初頭ごろまでは「新時期文学」と総称され、新作家も数多く生まれたが、とくに1980年代後半以後の作家たちの作品はテーマも手法も多様で一括しがたく、もはや「新時期文学」の呼称もふさわしくない時期に入っている。
 とくに1992年春、小平の『南巡談話』による「改革・開放」政策の加速と定着、市場経済の急速な発展は、文学の社会的存在意義をも急速に変えつつある。文学の商業主義化・サブカルチャー化の現象は中国でも顕著で、新しい風俗・流行等を題材にした通俗小説が人気をよぶ一方、読者の文学離れ、文学雑誌、作品の売れ行きの減少などが、問題になっている。
 もちろん1990年代以降現在でも、若い作家は次々に現れており、しかも多様化しているだけに代表的な名をあげることにも困難を感ずるほどだが、この混沌(こんとん)のなかからどんなものが生まれるかが、21世紀の中国に関心をもつ者の期待と不安であろう。
 ただ、そうした混沌のゆえか、文革後の中国文学に、世界の文学界が従来にない関心を寄せているのは事実である。卑俗な例をあげると、中国文学にはノーベル文学賞受賞者は出ていなかったが、文革後しばらくの間は、巴金の名が毎年下馬評に上り、1990年代には外国で作品を発表している詩人北島(ほくとう/ベイダオ)(1949― )の名がしばしばあがったが、2000年ノーベル文学賞が劇作家・小説家の高行健(こうこうけん/ガオシンヂエン)に与えられた。中国国内を含めてかならずしも有名作家ではなかった彼が、中国人作家で最初にノーベル賞を受けたことの背景には、彼が1988年以降フランスに在住して1998年にはフランス国籍も取得したこと、とくに彼の前衛的方法が欧米の関心と理解を得やすかったことなどの条件もあったろうが、中国文学が、ともするとエキゾチシズムあるいは社会的政治的動向を探る手がかりとしての関心から読まれがちであった時代が過ぎ去り、中国の作家たちの人間的文学的営みそのものとして読まれうる時代に移りつつあることを示すものかもしれない。[丸山 昇]

中国文学と日本文学


 日本人は初め、朝鮮半島を通じて中国を知り、中国との交渉を始めた。
 推古(すいこ)朝では、日本の上流知識階級の中国文化理解の程度がかなり進んでいた。りっぱな中国文で書かれた聖徳太子の「十七条憲法」(604)が、そのなによりの証拠である。近江(おうみ)朝の天智(てんじ)天皇は、自ら中国の詩文をつくると同時に、大いに奨励した天皇として知られるが、中国文化の摂取は政治の実務性のみならずしだいに芸術面にも及び、上流階級の人々に中国文学の知識が必須(ひっす)のものとなり、模倣が盛んに行われるようになったのである。いわゆる漢詩・漢文の知識が教養のバロメーターとなった。奈良・平安時代の上代文学の時期は、文学といえばとりもなおさず漢詩・漢文をさしていた。
 日本人が最初に学んだ中国文学は南朝風の美文学であり、その最良の手本が『文選(もんぜん)』であった。そして数度にわたる遣唐使の派遣で唐代文学の知識が深まるにつれ、唐の詩文も輸入され、人々に愛好されるようになった。とりわけ白居易(はくきょい)の『白氏文集(はくしもんじゅう)』が大きな影響を与えたが、しかし『文集』の影響が顕著になるのは平安中期以後のことである。『源氏物語』など平安中期の物語文学には、『文集』のほか『文選』など多くの中国文学の影響が認められる。
 平安時代に漢字から仮名をつくり、訓読(くんどく)という独自の解読法を生み出した日本人は、その後、相対的に中国語および中国語の詩文を書く能力は衰えていったものの、中国文学の摂取と普及はむしろ容易になり、多少の時差を伴いつつ中国の各時代の文学を学んでいった。たとえば、鎌倉・室町時代の京都五山の僧侶(そうりょ)を中心とする宋(そう)・元(げん)文学の摂取、江戸時代における明(みん)代の通俗的な長編白話小説の受容など、謡曲、俳諧(はいかい)、物語などに与えた中国文学の影響は計り知れない。
 明治期は、中国文学と西欧文学の両者のせめぎ合いの時期といってよい。結果は西欧文学がより大きな存在を占めるようになるが、それに伴って中国文学が日本文学から学ぶことが始まった。正確にいえば、日本の現代文学を通じて西欧文学を学んだのである。明治末期から大正期にかけて多数の清国留学生が来日し、日本語に訳された西欧近代文学の知識を吸収した。それがやがて中国文学の改革を生み出すのである。その代表的な文学者が魯迅であった。
 昭和期には、日中戦争によって両国の交流が中断されるという不幸な事態があったが、日本で中国の現代文学の研究が始まったのはこの時期である。魯迅や郭沫若(かくまつじゃく)・郁達夫(いくたつふ)らの作品が比較的早くに日本に紹介され、日本の知識人や作家の一部に影響を与えたが、中国現代文学の研究と翻訳が本格化するのは1949年の中華人民共和国成立後であった。さらに、1972年(昭和47)の日中国交回復以後は両国の交流が盛んになり、相互の留学生が増えると同時に文学者・研究者の交流も盛んに行われ、日本文学と中国文学の関係は一層緊密になり、新たな局面を迎えた。[佐藤 保]
『岡田正之著『日本漢文学史』(1929/増訂版・1954・吉川弘文館) ▽青木正児著『支那文学概説』(1935・弘文堂) ▽『中国現代文学選集』全20巻(1962~63・平凡社) ▽小島憲之著『上代日本文学と中国文学』全3巻(1962~65・塙書房) ▽『中国古典文学大系』全60巻(1967~75・平凡社) ▽『全釈漢文大系』全33巻(1973~80・集英社) ▽丸山昇著『現代中国文学の理論と思想』(1974・日中出版) ▽前野直彬著『中国文学史』(1975・東京大学出版会) ▽黎波著『中国文学館――詩経から巴金』(1984・大修館書店) ▽丸山昇ほか編『中国現代文学事典』(1985・東京堂出版) ▽倉石武四郎著『中国文学史』(1986・中央公論社) ▽和漢比較文学会編『和漢比較文学叢書』全18巻(1986~94・汲古書院) ▽竹内実・萩野脩二編著『中国文学最新事情――文革、そして自由化のなかで』(1987・サイマル出版会) ▽藤井省三著『中国文学この百年』(1991・新潮社) ▽北島ほか著、宮尾正樹ほか訳『発見と冒険の中国文学 紙の上の月――中国の地下文学』(1991・宝島社) ▽張愛玲ほか著、桜庭ゆみ子ほか訳『発見と冒険の中国文学 浪漫都市物語――上海・香港'40S』(1991・JICC出版局) ▽興膳宏編『中国文学を学ぶ人のために』(1991・世界思想社) ▽藤井省三編『笑いの共和国――中国ユーモア文学傑作選』(1992・白水社) ▽林田慎之介著『中国文学の底に流れるもの』(1992・創文社) ▽駒田信二著『新編 対の思想――中国文学と日本文学』(1992・岩波書店) ▽相浦杲著『求索――中国文学語学』(1993・未来社) ▽萩野脩二著『中国“新時期文学”論考――思想解放の作家群』(1995・関西大学出版部) ▽吉田富夫著『中国現代文学史』(1996・朋友書店) ▽藤井省三・大木康著『新しい中国文学史――近世から現代まで』(1997・ミネルヴァ書房) ▽松枝茂夫著『中国文学のたのしみ』(1998・岩波書店) ▽藤井省三編『現代中国短編集』(1998・平凡社) ▽丸山昇監修、芦田肇・佐治俊彦・白水紀子編『中国現代文学珠玉選 小説(1)~(3)』(2000~01・二玄社) ▽丸山昇著『「文化大革命」に到る道――思想政策と知識人』(2001・岩波書店) ▽大野修作著『書論と中国文学』(2001・研文出版) ▽佐藤美知子著『万葉集と中国文学受容の世界』(2002・塙書房) ▽九州大学中国文学会編『中国文学講義――わかりやすくおもしろい』(2002・中国書店) ▽吉川幸次郎著『中国文学入門』(講談社学術文庫) ▽井波律子著『中国文章家列伝』(岩波新書) ▽井波律子著『中国の隠者』(文春新書)』

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