中国の詩人、作家、歴史学者。本名郭開貞。筆名は沫若のほか麦克昂(ばくこくこう)、易坎人(えきかんじん)など多数。四川(しせん/スーチョワン)省楽山(らくざん/ローシャン)県の中地主の家に、1892年11月16日に生まれる。少年時代から反逆精神に富み、中学時代二度も退学処分を受けた。成都(せいと/チョントゥー)の中学在学中に辛亥(しんがい)革命を体験、1914年日本に留学、旧制第一高等学校の特設予科、旧制第六高等学校を経て九州帝国大学医学部に学んだ。来日前に古い型の結婚をしていたが、一高在学中に佐藤をとみと恋愛、六高入学後に結婚、5子をもうけた。19年、本国の五・四運動に触発されて、詩を上海(シャンハイ)の『学灯』に投稿したのを最初に創作を始め、21年、同じく留学中の郁達夫(いくたつふ/ユイターフー)、成仿吾(せいほうご/チョンファンウー)らと創造社を結成、同年最初の詩集『女神(じょしん)』を出版した。初期の作品は、現実に対する反逆精神を直線的に歌い上げる傾向が強く、ロマンチシズム、個性の解放を掲げた創造社を代表するものであった。
国民革命の進展とともに、河上肇(はじめ)の影響も受けてしだいにマルクス主義に接近、文学と革命との結合を唱えた最初の数人の一人となるとともに、創造社の左翼化をリードした。北伐時には国民革命軍総政治部秘書長として参加したが、1927年、四・一二クーデター後南昌蜂起(なんしょうほうき)に参加、国民党の追及を避けて28年日本に亡命、千葉県市川に住んだ。ここでは中国古代史研究に沈潜、今日からみてやや機械的という批判もあるが、この分野の学問に史的唯物論の方法を導入した意味は大きい。抗日戦開始直後、妻子を残して帰国、国共合作下の国民革命軍総政治部第三庁庁長として宣伝工作を担当。またこれに前後して于立群(うりつぐん)と結婚、彼女との間に3子をもうけた。抗戦中期からは反動傾向を強めた国民党に対する批判を『屈原』ほかの歴史劇に込め、大きな反響をよんだ。
第二次世界大戦後は反内戦、民主主義の運動の先頭に立ち、解放後は、副総理、科学院院長などの要職を歴任する一方、古代史研究、史劇などに多くの仕事を残した。つねに時代の先頭を切る彼は、文化大革命開始の際にもいち早くこれを支持したが、1973年には批林批孔(ひりんひこう)の名を借りた文革派の攻撃も受けた。つねに政治の第一線にあり、振幅も大きいその行動様式には批判も少なくないが、それは私心によるよりも、その時々の思想的課題を彼なりに全力で生きたことによるもので、近代中国の知識人の代表の一人であることを失わない。78年6月12日死去。『沫若文集』17巻(1957~63)がある。
[丸山 昇]
『『郭沫若選集』1、2、5~8、13、15巻(1977~86・雄渾社)』▽『平岡武夫訳『歴史小品』(岩波新書)』
中国の文学者,考古・歴史学者,政治家。本名郭開貞。筆名は鼎堂,麦克昂,易坎人など多数。四川省楽山県出身。成都の中学を出たあと,1914年渡日,一高予科,六高を経て18年九州帝大に進み医学を修める。高校在学中に西欧文学,とくにゲーテやホイットマンに親しみ,口語自由律詩を作って新聞に投稿,新詩人として認められた。21年郁達夫らと創造社を結成,旧社会への反逆と個性の解放,芸術至上主義を掲げて,中国近代文学におけるロマン主義の旗手と目された。九大卒業後,医を業とせず,上海の大学などで教えつつ文学をもって立とうとしたが,五・三〇事件前後の状況のなかで社会革命に傾き,革命文学を唱える一方,26年には国民革命の策源地広州へ赴き,27年北伐革命軍に参加。政治部で宣伝活動に従うが,四・一二クーデタの前夜,蔣介石を批判,地下に潜行し,同年南昌蜂起に加わったが失敗,28年初め日本に亡命した。以後37年まで千葉県市川に住んで主として中国古代史,甲骨金文の研究に従い,大きな業績をあげた。37年日中戦争開始の直後帰国,上海,武漢,重慶などで国民政府の下に抗日宣伝活動に従いつつ,創作と文学研究をも続けた。日中戦争終結の後,内戦回避,国内統一のため努力したが実らず,48年には東北解放区へ向かい,人民共和国成立に際して無党派民主人士代表として政府に参画,国務院副総理,人民代表大会常務委員などを歴任,主として文化・学術・国際交流などの分野で指導的役割を果たした。中国科学院の初代院長,中ソ,中日両友好協会会長など,この方面の役職はきわめて多い。文化大革命の初頭,激しい自己批判を行って注目を集めたが,晩年は病気がちで,主として科学院考古研究所に在った。著作は,文学の創作と翻訳,研究,および甲骨金文,古代史の研究を中心にきわめて多方面に及ぶが,代表的なものに,文学方面では,詩集《女神》(1921),《星空》(1923),歴史劇《王昭君》(1925),《屈原》(1942),《蔡文姫》(1959),《武則天》(1960),自伝に《幼年時代》(1928),《創造十年》(1931),翻訳に《ファウスト》など,文学研究では《楚辞》と屈原関係や《李白と杜甫》(1971)などがそのロマンティストの面目をよく伝えている。考古・歴史方面では,唯物史観による初の中国古代研究の労作とされる《中国古代社会研究》(1931)や30年代の一連の甲骨金文研究の著作,《十批判書》(1944)など。死去に際し,27年の入党が公表された。《沫若文集》17巻のほか,新たに全集が刊行中。
執筆者:中島 みどり
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1892~1978
中国現代の文学者,歴史家,政治家。四川省楽山の人。日本留学中,郁達夫(いくたっぷ)らと創造社を組織し,中国最初のロマン主義運動を開始。帰国後,国民革命に参加。1927年共産党に入党。国共分裂後日本に亡命,中国古代史研究と自伝小説の執筆にあたった。日中戦争が起こると帰国し,抗日救国宣伝工作に従事した。のち『屈原』(くつげん)など歴史に取材した戯曲の創作と評論に活躍した。中華人民共和国成立後は中国科学院院長に就任。マルクス主義の観点から中国の奴隷制を論じた。文化大革命期には以前の自分の仕事には何の価値もないといち早く自己批判して内外に衝撃を与えた。国務院副総理,中国共産党中央委員,中日友好協会名誉会長などを歴任した。
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… 民国時代の殷墟をはじめとした各地での青銅器発見,新中国成立以後の発掘調査のめざましい進展によって金文資料は著しく増加した。王国維からあとの金文学は,《両周金文辞大系》ほか多数の著作を残した郭沫若,《商周彝器通考》で知られる容庚(ようこう)らによって継承されている。また日本でも貝塚茂樹,白川静らの金文学者が優れた業績を生み出した。…
…名作《阿Q正伝》(1921)をはじめ,《吶喊(とつかん)》《彷徨》の二つの作品集に収められた諸作品には,暗い現実を凝視する作者の視線に,みずからをも現実に対する加害者の一人ととらえる苦い内省の思いが影を落とし,独特の深みのある世界を作った。こうした文学研究会の傾向に反発した郭沫若,郁達夫(いくたつぷ)などは創造社を組織し,芸術至上主義を唱えた。彼らの傾向をもっともよく代表するのは郭沫若の長詩《女神》で,奔放な空想力を駆使して反逆の呪いと人間解放への希求を高らかに歌ったこの作品は,その内容と表現の両側面で真に近代詩の名に恥じない最初の作品となった。…
※「郭沫若」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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