谷村城跡(読み)やむらじようあと

日本歴史地名大系 「谷村城跡」の解説

谷村城跡
やむらじようあと

[現在地名]都留市上谷一丁目

桂川右岸にあった城。天和三年―元禄五年(一六八三―九二)頃の谷村城下絵図(浅野文庫蔵)や宝永二年(一七〇五)の谷村城下絵図(横山脩治家蔵)によると、城地は現在の都留市役所ないし谷村第一小学校付近と推定されるが、築城時期・築城者・遺構などは未詳。天文元年(一五三二)小山田越中守信有は居館を中津森なかつもり館から谷村館に移しているが(勝山記)、一説に谷村館は谷村城の前身で、館のあったほぼ同じ場所に谷村城が築城されたともいう。ちなみに「甲斐国志」は、谷村の小山田氏館跡とは別に谷村館跡で天正一〇年(一五八二)の鳥居元忠在城から宝永二年の谷村藩主秋元喬知の武蔵川越移封までの変遷を記しているが、実際には前年一二月二五日に移封を命じられている(「秋元系譜原委私鈔集」東京都林友直家文書)。この谷村館跡の記事に従えば、当城は中世末期から近世初頭の郡内ぐんない領主の居城、およびその後の谷村藩の藩庁としての機能を果していたことになる。なお桂川対岸のしろ山には、当城の属城としての役割を果した勝山かつやま城があった。

〔谷村藩以前〕

天正一〇年末から同一八年まで徳川家康の家臣鳥居元忠が都留一郡を与えられ、同一一年には郡主との立場を徳川氏から公認され、同一二年から実質を伴う支配を展開したと推察される(山中湖村史)。ただし当時の政治状況からみて、鳥居元忠の支配は国中くになか三郡を中心とした支配体制に依拠し、まったく別の都留郡支配の機構を創出しえたとは考えられず、都留一郡支配に至る萌芽とみられる。同一八年八月に鳥居氏の跡を受けた羽柴秀勝の時代も、家臣三輪近家によって国中三郡とは別の一郡支配体制が指向された形跡があるが、一年に満たない短期間の支配であったため、十分な展開をみなかった。同一九年に甲斐へ入った加藤光泰の時代には、加藤作内光吉(美濃出身の一柳家から光泰の婿養子に迎えられたが、光泰の実子貞泰の誕生・成長によって家臣となった)が都留郡支配を任せられた。しかし短期間支配は加藤氏も同様で、文禄の役で光泰が朝鮮半島で死去し、加藤氏は文禄二年(一五九三)には美濃へ転封となった。

文禄二年加藤光泰の跡を継いだ浅野長政・長継(幸長)の時代には、重臣浅野氏重が谷村に配置され、郡内を支配した。浅野氏は同三年三月四日に支配方針の覚を出している(「浅野長政・長継連署条目」浅野家文書)。同覚では九筋のうち一筋ごとに三人の奉行を置くという複数による在地支配方針が打出されているが、郡内領は河内かわうち領とともにこの方針から外され、前代からの経緯も踏まえて都留郡は浅野氏重一人の管轄下に置かれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報