日本語でいう「経済」の語源が「経世済民」(世の中を治め、民を済<すく>う)であることは、周知であろう。すなわち、経済学は、本来「貧困の経済学」そして「政治経済学」として出発したのである。ところが、近年の経済学の主流は、大きくみて、数学に依拠する「純粋経済学」になっている。この変貌は何ゆえに生じたのであろうか。 英語でいう「Economy」の語源は、「oikos(家)・nomos(法・慣習)」であるが、この言葉には、経済、節約の他に、有機的統一、理法、摂理・定制・経綸、神の支配・計画、及び家政などの多義的な意味合いがある。ところが、通常は前二者の意味しか意識しないので、「man of economy」は訳せても、「economy of nature」などは見当もつかないことになる。 こうした理解から、経済学とは、希少な手段から目的の極大化に至る最適経路=経済的合理性の一般法則を解明する学問であるという、1つの解釈が生まれてくる。そこでは、経済の持つ有機的統一や理法などの含意が忘れ去られて、人間と自然との物質代謝過程、あるいは人間相互の社会・経済的諸関係の分析もまた、遥か後方に追いやられてしまっている。 今日の「開発経済学」に必要な視点は、経済的合理性のみではなく、人々の経済的行為を今なお規定している親族関係やジェンダーなど、非経済的な諸要因への着目であろう。ここに、社会の全体構造との連関において経済活動を分析しようとする、「経済人類学」が注目される所以がある。