翻訳|gender
1970年代の女性解放運動の盛り上がりの中で、生物学的な性差(セックス)に対し、社会的・文化的につくられた性差との意味で広まった。現在は性的少数者を含む性の多様性や、男性性なども重要な研究対象となっている。国際社会では「ジェンダー平等」が重要な政策課題とされ、国連は2030年までの実現を目指す「持続可能な開発目標(SDGs)」にも盛り込んだ。
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「社会的、文化的な性差」と一般に訳される。先天的なものではなく、文化的に身につけた、あるいはつくられた性差の概念をさす。ジェンダーの研究は、文化人類学では、いかに男性と女性が日常生活においてそれぞれの役割を果たし、それぞれの社会的役割がどう認識され評価されていくか、またそこに生じる差異がなぜ構築されていくかを追求する。家族での責任、仕事上での役割、その他日ごろの生活のなかで、「男性/女性」はそれぞれの役割分担をもつ一方で、相互に関連しあっている。いかなる文化においても、そこに、人々は文化的意味を構築している。したがって、異なる染色体によってつくられる形態上の性差とジェンダーとは違う。また、ジェンダーの研究では「女性の人類学」だけでなく、男性もその研究対象であり、さらに男性と女性とのお互いに補いあい、競いあい、あるいは敵対しあう、そうした諸関係も重視される。
[吉田光宏]
1970年代以降、このジェンダーの研究が活発になり、さまざまな理論が、大きく分けて、文化的側面からのアプローチと経済的側面からのアプローチが提出されてきている。しかし、ジェンダーを説明する理論としては、それぞれ限界があることが指摘され、いまなお議論が続いている。ここでは、これまでの論議を総轄したのち、80年代後半から登場したより新しいアプローチを概括的に紹介する。
文化的アプローチは、「自然/文化」「公的/家庭内的」といった二項対立的カテゴリーからジェンダーの分析を試みる。ロザルドとランフェールによって監修され1974年に出版された著書『女性、文化、社会』のなかで、「自然/文化」のカテゴリーはシェリー・オートナー、「公的/家庭内的」のカテゴリーはミッシェル・ロザルドによって提言されている。いずれの立場も、どの社会においても、ジェンダーにおけるヒエラルキー、つまり、「男性/女性」の力関係の不均衡が構築されていると主張する。女性の地位や権威が普遍的に男性よりも文化的に劣位にあるとするこの立場は、ユニバーサリスト(普遍主義者)とよばれる。この根源にあるのは、人間の本性に根ざす認知体系であるという。女性は、子供を産むという「自然」な機能を有し、さらに養育していくという「家庭内的」役割を担う。これに対して、男性は、生産的技術を有し、政治的経済的諸組織をつかさどる。男性のこうした社会的役割は「公的」な領域にあるとする。この「公的」領域は、より「自然」に近い女性の「家庭内的」領域とは切り離され、「文化的」なものととらえられ優位な立場を保持する。このように、女性の社会的地位が低くみられ、女性が果たす経済的貢献が低く評価されがちなのは、こうした、「男性/女性」の存在に対する象徴的認知体系が作用しているとする。このような人間の思考の本性に普遍的に内在する「自然/文化」「公的/家庭内的」という二項対立的カテゴリーによって、ジェンダーを説明している。
後に1981年、『性の意味:文化的に構築されるジェンダーとセクシュアリティ』のなかで、コリアーとロザルドはこのアプローチをさらに発展させ、ジェンダー・ヒエラルキーが、「狩猟/採集社会」という日常生活の役割のなかで構築されていく過程を提示した。狩猟は男性の領域で、結婚した青年は、捕らえられた動物の肉を親戚(しんせき)関係にあるもの、とくに年配の成員に分け与えていき、徐々にその能力を認められていく。一方、女性は植物を集め、家族のために日々料理をしていく。社会的ネットワークは、狩りに従事する男性の場合には、必然的に幅広くなり、女性の場合、それに比べて狭くなる。これら生きていくためにそれぞれが担う役割には、社会的評価というものがつねにつきまとう。経済的な貢献をしていくという点では、「男性/女性」ともに同じはずだが、高い評価を勝ちとるのは、狩猟を営む男性であり、採集を行う女性ではない。このような価値体系を反映し、儀礼では、狩人(かりゅうど)である男性が象徴的に浮き彫りにされ、女性の存在は、むしろ、その性的美しさが強調され、彼女たちの経済的な貢献は、描き出されない。狩猟採集社会では、経済的な関係は平等であるはずなのだが、文化的価値体系は、「男性/女性」それぞれに担う役割が異なって評価されていく。コリアーとロザルドは、婚姻関係をめぐる社会的プロセスを通して、女性の価値は劣位に置かれていくと主張し、そこには、生物学的資質や、経済的な要因は関係していないと議論を発展させている。
婚姻関係のなかで密接にからむ力の作用に着目したのが、オートナーとホワイトヘッドで、前掲著書『性の意味:文化的に構築されるジェンダーとセクシュアリティ』の理論的概論の章のなかで、コリアーとロザルドの議論の理論化を試みており、狩猟採集社会の婚姻関係のなかにみられる価値体系、つまり、女性を劣位にし男性を優位にする力学というのは、他のいかなる社会においても作用していると述べている。どの社会においても、男性はつねに「社会的名誉」や「社会的価値」というものを追い求め、そこに、彼らのアイデンティティを主張していくのに対し、女性は、夫との関係のなかで、あるいは、子供、母親、兄弟姉妹の関係のなかで、つまり、彼女をとりまく家族的関係のなかで、アイデンティティを確立していく。威信を追い求める男性像の裏には、つねに、女性が必要とされるが、逆に、この「威信構造」が存在するゆえに、いかなる社会においても、女性は、脇役的な立場を余儀なくされ、男性は中心的な存在となる。普遍的にみられるジェンダー・ヒエラルキーというのは、社会的文化的過程のなかで構築されるものであり、生物学的に与えられているものではないと論じている。
こうしたユニバーサリストらによる立場に異論を唱えているのが、マルクス的解釈を支持するカレン・サックス、エレノア・リーコック、マキシーヌ・モリノーらである。ユニバーサリストが、ジェンダー・ヒエラルキーは普遍的に存在すると主張するのに対して、マルクス的議論では、それは資本主義社会へ発展していく歴史的過程のなかでつくられていくものであると主張する。女性のランクが男性よりも下位に置かれるのは、女性の「自然」な機能でもなく、「家庭内的」役割でもないと主張し、むしろ、女性がどの程度生産手段を所有し支配するかに関係しているとする。この立場は、個人の所有する財産が存在せず、共有財産の観念が支配的な原始共同体社会の段階では、ちょうど狩猟採集社会がそうであるように、男性と女性の関係は平等であり、「公的」役割と「家庭内的」役割を区別するのは、かなり無理があるとする。西欧の歴史が示すように、しだいに私有財産の観念が生まれ、階層社会に発展し、資本主義へ移行する過程において、家と職場の境界線が明白になり、男性が支配的な立場になり、そうして、女性は男性よりも下位に置かれたと主張する。サックスらは、資本主義がまだ発展していない社会でも、土地を耕作し家畜を飼育する社会において、女性は男性に従属していると述べ、こうした社会では、私有財産の観念が生まれており、男性がそれを統括し、女性はその下に置かれることを余儀なくされるとする。クロード・メイヤスーは、こうした社会で、女性は子を産むことによって労働力を提供し、男性はそれを支配することで、社会を永続させると述べている。これに対して、モリノーは、女性は経済的貢献をしているにもかかわらず搾取されていると強調する。つまり、女性は単に母親としての役割だけではなく、経済的役割を果たして社会に貢献しているのだが、この経済的貢献こそが搾取される要因であると指摘するのである。サックスも、子供を産むという機能よりも、女性が生産手段を有しているかどうかが、その地位を左右するとしている。結婚している女性は夫側の財産に対して弱い立場にあるが、実家の財産については強い発言権をもっていることを指摘する。したがって、女性の地位や役割というのは、けっして、生まれたときに与えられたものではなく、経済的な要因に左右されるものであり、歴史の発展過程のなかで女性が男性に従属するに至っていると論ずる。
ジェンダー・ヒエラルキーは普遍的には存在しないとする理論家たちは、唯物論的立場にたっており、ネオマルクシストとよばれている。こうした議論に対して、さまざまな問題点が提出されている。コリアーとヤナギサコは、より近年のジェンダーの研究のあり方を検証している1987年の論文のなかで以下のように指摘している。「搾取」「生産手段」「私的財産」といった概念は、すべて欧米諸国の歴史と文化のなかから生まれてきたもので、他の社会を研究するにあたって、こうした理論的道具を使うのが妥当なのかどうかといった根本的な問題も問われている。
[吉田光宏]
以下、唯物論的アプローチの限界についてコリアーとヤナギサコの三つの指摘を要約する。第一に、ネオマルクシストのモデルのなかの力関係は、男性と女性の経済的役割のみ、つまり男性と女性の価値を経済的貢献という単一の角度のみから分析しているとする。どの程度女性が、男性の「公的」領域に踏み込んでいるかが焦点となっており、それ以外の場で形成されうる力関係を多面的にとらえていない。実際の人々は、「搾取」という不平等な構造を、自分たちの社会では意識していないとしている。分析の対象は、この経済関係であり、実際の「女性/男性」の関係において、それぞれ日常生活のなかでどう理解しあっているか、あるいは、それぞれの文化でどういう価値観をもっているか、といったより多面的な分析を重視していない。第二に、この「男性/女性」の関係を分析するにあたり、単一の歴史の発展過程を想定している。いかなる社会の歴史も西欧諸国家がたどってきたように、単系的進化をとげて、やがては資本主義化され工業化されていくということが、この議論の前提にある。「搾取」「生産」「私有財産所有」といった概念は、工業化の発展という西欧の歴史のなかで、とくにマルクスとエンゲルスの理論のなかで構築されていった概念であり、この進化の過程が、はたして他の社会にもみられるのかどうか疑問が投げかけられている。第三に、この発展段階の初期において、いかに「搾取」が存在するかということを明確に示す必要があると指摘する。マルクスとエンゲルスは、「搾取」の概念は資本主義への発展段階において生まれていくと述べ、その前段階にある諸社会は、その分析の対象とはなっていない。が、ユニバーサリストに異論を唱えるネオマルクシストはいわゆる未開社会においても「搾取」は女性と男性の間に存在すると主張する。欧米の歴史の発展過程のなかで生まれてきたカテゴリーが、他の社会でもあてはまるとしたり、さまざまな社会でのジェンダーを西洋的な概念のなかで分析をするアプローチには限界がある。
こうした欧米中心的な視点から生じる限界が、文化的アプローチとされるユニバーサリストたちにも、当てはまる。つまり、「自然/文化」「公的/家庭内的」といった二項対立的カテゴリーもまた西欧的な概念であり、同様の概念が他の文化に普遍的に当てはめることはできないと、コリアーとヤナギサコ、ヘンリエッタ・ムーア、マリリン・ストラサーンらが指摘している。西洋的な考え方では、「文化」とは人間が「自然」に働きかけて創造していったものであり、なにかを建設していく力や支配していく力が、この「文化」ということばの背後に存在している。西欧のモデルでは、「公的」な「文化的」な領域に権威を与え、「家庭内的」な「自然」な領域は圧力が加えられる対象となっている。こうした力学が作用する構造のなかで、男性が支配的な役割を担い、女性は脆弱(ぜいじゃく)な立場に置かれ、母親としての役割は劣位に置かれることを余儀なくされる。こうした男女の役割分担と力の不均衡は、西洋の歴史と思想に深く根ざしたものであった。
欧米のジェンダー・ヒエラルキー自体、もともと古代ギリシアの哲学者たちの思想にもみられるのであり、それが、17~18世紀の啓蒙(けいもう)主義時代において、ルソー、デカルト、ベーコンらによって提唱され、いまなお男性と女性をめぐる世界観に反映されていることが指摘されている。これは、ロンダ・シービンガーが『心に性別はないか?:近代科学の黎明(れいめい)期における女性』(1989)のなかで、またジェネビーブ・ロイドが『理性ある男性:西欧哲学における「男性」と「女性」』(1984)のなかで分析している。ロイドは、たとえばプラトンやアリストテレスといった古代ギリシアの哲学者たちは、すでに「自然/文化」というカテゴリーで、ジェンダー・ヒエラルキーをとらえていることを指摘している。男性が合理的理性を象徴するのに対して、女性は、神秘的な非合理性を象徴し、「自然」に近いとしている。女性は子供を産み育てることができるのに対して、万物の事象を説明するための知性は、男性が追求するべきであるとしている。デカルトは、このような立場とは若干違い、女性もこの真実の科学的探求が可能であるとしているが、女性の家庭での役割は、その妨げになるとしている。この考えをさらに押し進め、当時の具体的な政治政策に影響を与えたのがルソーであった。シービンガーが指摘するように、ルソーは、男性と女性の差異は、生物学的資質によるもので、女性は母親としての役目、妻として夫に奉仕する役割に徹することで、社会に貢献できるとしている。科学的真理の探求を女性がすることは、生来の女性の本質に反するものであるとすら論じていた。
このルソーの唱えた、生来の男性と女性の差異に基づいた役割が、当時18世紀後半以降活発化しつつあった産業革命と並行して、西欧諸国に浸透していった。当時の医学や科学の分野でも、こうしたジェンダーの見方が反映されており、たとえば、女性が母親になるための資質というのは、骨格のつくりにもみられるとして、男性と比べて女性の骨盤が発展している一方、頭蓋骨は未発達な状態でそのつくりは子供の骨格に近いものがあるといった議論がなされていた。「主観的」な個人の価値観にとらわれることのない「客観的」であるはずの科学の分野に、実は、こうした男性の女性に対する差別的偏見が横たわっていたことを、シービンガーは指摘している。その他の医学の分野でも男性は女性を排除しており、たとえばジョルダノバが報告しているように、当時の医師は、お産のときに使用する特別な器具や医学的知識をもつことのできなかった助産婦に対して、運や情緒の作用にまかせる「自然の奴隷」と見下し、優越感を抱いていた。今日もなお、西洋の医療の発想で、たとえば感情的要素を軽視しがちな傾向にあるのは、こうした科学の男性中心的発想によるものであるとエバリン・フォックス・ケラーは著書『ジェンダーと科学』(1985)のなかで論じている。また、アメリカの入門的医学書には女性は子を産むべきものであるという男性の暗黙の期待が言外にこめられており、こうした科学の見方を欧米のひとつの「文化システム」であるとエミリー・マーティンは『身体の中の女性:生殖の文化分析』(1987)のなかで論じている。その著者のなかで、医者側の男性中心的なバイオロジカルな見方に対して、実際のアメリカの女性たちの月経や更年期障害や妊娠といったものに対する見方は、彼女たち自身をとりまく家庭環境や仕事上の立場などのなかで理解され、その解釈も多様であることを報告している。
「自然/文化」「家庭内的/公的」といったカテゴリーは実は、西洋の歴史と文化に深く根ざした、欧米人の世界観であり、他の文化のジェンダーを説明する際には、さまざまな限界があることが指摘され続けている。ストラサーン、ヤナギサコ、ワイナーらが示したように、たとえば婚姻や葬式といった家族をめぐって日常に行われることは、より広い「政治的/経済的」な関係と密接にからんでおり、かならずしも「家庭内的」領域と「公的」領域とに二分化することはむずかしい。ワイナーは、男性と女性はこの二項対立的カテゴリーにおかれ、それぞれ相反しているのではなく、実際には、それぞれ相互補完的な役割にあると力説している。また、こうしたカテゴリーでは、いわゆる「男性の領域」以外で構築されうる力の作用というものを、説明できないと、ロジャースは述べている。実際に、女性が「文化」的でもなく「公的」でもない領域で、力を獲得していくことがプールによって報告されている。ユニバーサリストが提唱したカテゴリーにも、こうした限界がある。他の文化の多様な「男性/女性」のあり方を理解しようとして、これまで用いられてきた理論的道具は実は、コリアーとヤナギサコが指摘するように、西洋のジェンダーのモデルを投影させ再構築することに終わっている。
これまでの諸理論には、西洋社会固有の歴史や文化や思想が投影されている。「生産手段」「搾取」「私有財産の保有」「自然/文化」「家庭内的/公的」といったカテゴリーは、他の文化のさまざまな男性像や女性像を理解するための道具としては、限界があり、ともすれば、欧米中心主義的な解釈に陥ってしまう危険がある。しかしながら、1970年代から盛んになされてきた議論は、多様なパースペクティヴを提示してきており、さまざまな問題提起を行ってきているともいえよう。また一方で、両者の理論の妥当性をめぐる論争は、男性と女性の存在価値や社会的意味は、けっして生物学的に二つの異なる遺伝子によって決められるものではなく、社会的、経済的、文化的要因が複雑にからんで構築されているものである、ということをわれわれに語りかけている。この議論は、遺伝子的要素に社会関係の源を探ろうとする社会生物学的立場に真っ向から反論するもので、性差別的見解や人種差別的偏見を助長する恐れがある学説に警鐘を鳴らしている。
[吉田光宏]
1980年代以降の文化人類学的ジェンダーの研究では、欧米的カテゴリーとされた理論的な道具の妥当性の検証はまだ続いている一方で、こうした限界を超越するべく模索状態が続いている。1980年代後半以降のエスノグラフィーは、いずれも、「男性/女性」の諸関係を多様な社会的コンテクストで分析し、その文化における固有の世界観、経験、感情をより深く探求し、その土地において男性であることの意味、あるいは女性であることの意味を浮き彫りにしている。以下、どのようなアプローチがなされてきているかを紹介する。
第一に、これまで提出されてきた西洋的カテゴリーが普遍的に存在するという前提を疑問視するところから出発している。たとえば、「文化的」な「公的」な立場、あるいは「私有財産」の保持などが、一個人に権威や力を付与するという見解に異論を唱える。むしろ、個人の力がいかにその土地の価値観のなかで認められていくかということを探る。力、権威、あるいは地位は、「政治的/経済的」といったものからではなく、その土地が重んじるところのさまざまな価値観、あるいは、一個人が社会的評価を勝ち得るために必要とされるその土地固有の世界観から生れるととらえる。西洋的概念を使用する際、かならず、それが研究対象としている土地の人々の価値観や感情や経験のなかで、どのように構築されているのかということを明確に描写している。また、西洋のカテゴリーとどう違い、どう似ているかということを比較検証する。ミクロネシアにおけるキャサリン・ルッツの研究『反自然的感情:ミクロネシアにおける日常の感情と西洋の理論への挑戦』(1988)は、その土地の人々の感情の表現がいかに「社会/政治」と関係しているかを示し、それが、欧米での「自然」な生理学的反応ととらえられる感情表現の意味と、いかに違っているかを分析している。そうして、一個人の地位は、人と接する際に要求される感情表現、とくに「ファーゴ(同情)」という感情の表現と密接にからんでいることを指摘している。
第二に、その土地で生まれ育っていく過程で、一個人がどのようにその土地で一人前の成人として認められていくか、そうして、どのようにアイデンティティを確立し、自我を主張していくかを探る。その土地での男性であることの意味や女性であることの意味は、あらかじめ提出されたカテゴリーからとらえるのではなく、その文化固有の世界観のなかで浮き彫りにしていく。さまざまな社会的コンテクストで、他の成員といかに相互に関連しあい、競いあい、あるいは争いながら、自我が形成されていくかを記述している。このさまざまな角度からの分析では、従来のカテゴリーの前提であった、「男性/女性」は相反する存在であるといったとらえ方はしていない。むしろ、「男性/女性」は相互に関係しあい、補完しあっているといった立場をとる。1989年のジャニス・ボディによるアフリカのイスラム社会における女性の憑依(ひょうい)現象の研究『子宮と外界からの精霊:北スーダンにおける女性、男性、ザール祭礼』は、一人の女性がいかに自我を確立していくかを描きだしている。女性が、頻繁に行われる割礼を通して、どのように一人前の女性と認められていくか、そうして、妻であることの意味、あるいは母になることの意味がどのように憑依現象に投影されており、それが、男性中心社会とされるイスラムにどのような意味があるかを描写している。
第三に、西欧との接触において生じてきた歴史的変化が、その土地においていかなる文化的意味があるかを分析している。いまや近代工業化は地球上の至る所でなんらかの影響がみられるが、この地球規模で広がりつつある変化のなかで、その土地の文化を考察する。が、すべての社会が、資本主義社会へと進化していくといった前提はとらず、経済的変化そのものが、どのように、その土地でとらえられているか、あるいは、反抗の対象になっているかを探り、また、それが「男性/女性」の社会的関係にどのような意味があるかを検討する。ライラ・アブルゴッドによる地中海沿岸に住むベドウィン社会の女性たちの朗詠する詩の研究『ベールで隠された感情:ベドウィン社会の名誉と詩』(1986)では、こうしたグローバルな視点から、女性であることの文化的な意味を記述している。さまざまなコンテクストで歌われる詩には、日常の会話で口にすることのできない、男女関係や夫婦関係にからむ愛や悲しみ苦しみといった個人的な感情が表現されている。これは、貨幣経済の浸透によって、女性の活動範囲が狭められ家に束縛されるようになったことと密接に関連している。とくに、父方平行いとこ婚を重視するこの社会では、こうした詩に歌われているような感情は、ともすれば社会的ルールを脅かしかねないものととらえられている。が、女性は、昔は結婚式など限られた時にのみ歌われていた詩を、より頻繁に、日常生活のなかで、朗詠するようになった。この詩を通して、社会のルール、期待されている役割や責任が女性にとってどういう意味があるかを表現し、社会の一人前の女性としてのアイデンティティを表現している。さらに、この詩には、伝統的な牧畜社会がしだいに近代社会に移り行くことに対しての反抗の意味がこめられている。
以上述べてきたように、近年のアプローチでは、人々の日常生活での経験や感情を浮き彫りにしていきながら、ジェンダーを分析しなおすようになってきている。それぞれの人格や地位や力がどのように形成されているかを分析するために、画一的なカテゴリーから探るのではなく、その地域における諸事情から生まれる固有の価値観から分析するようになってきている。このアプローチでは、どの程度、「男性/女性」が政治的経済的貢献をしているかということを問うのではなく、いかにその土地の人々が一人前の成員としてみとめられていくか、ひとりひとりが担う社会的役割はどのようにとらえられているかを、グローバルな視点から多面的に追究する。その地域の世界観を把握したうえで、はたしてそこにジェンダー・ヒエラレルキーは存在するのかどうかを問い、もし存在するのであれば、その土地で女性として生きることの意味や男性であることの意味を探っている。
[吉田光宏]
『エドウィン・アードナー、シェリー・B・オートナー他著、山崎カヲル監訳『男が文化で、女は自然か? 性差の文化人類学』(1987・晶文社)』▽『E・F・ケラー著、幾島幸子・川島慶子訳『ジェンダーと科学』(1993・工作舎)』▽『Collier, Jane Fishburne and Sylvia Junko Yanagisako, eds.Gender and kinship, essays toward a unifield analysis(1987, Stanford Unibersity Press, Stanford)』▽『Sacks, KarenSisters and wives, the past and future of sexual equality(1982, University of Illinois Press, Chicago)』▽『Schiebinger, LondaThe mind has no sex?, women in the origins of modern science(1989, Harvard University Press, Cambridge Massachusetts)』
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[社会・文化に規定される男らしさ,女らしさ]
各々の社会はそれぞれの社会に特有の分類体系を有し,それに基づいて秩序を維持している。太陽と月,魂と肉体,右と左といったプリミティブな差異に象徴的な意味を付与し,分類し,範疇化するのであるが,生物学的な性差,男性と女性(ジェンダー)とてもその例外ではない。各々の社会には構成員が認識を共有する「男らしさ」「女らしさ」がある。そして,学問の領域もその影響を色濃く受けている。大学という空間をいち早く成立させたヨーロッパにおいて,そもそも学問は男性の領域に分類されるものであり,女性は入学さえ許されなかった。理性をよりよく働かせることができるのは男性のみであり,より肉体的で感情的な存在である女性は学問に馴染まないとされてきた。また,日本の社会においても公式な文書を記すための真名(漢字)が男手とされるのに対し,私的な感情を表現する際に用いられることが多かった仮名は女手と分類され,紫式部は真名を書き散らす清少納言を「さかしだ」つものとして批判している。女らしさは理知的な「賢さ」ではなく,愚かなまでの信仰の篤さや狂おしいまでの情念の豊かさによって表象されてきた。
[女性的な学問]
男性が理性的な存在とされるのに対し感情的な存在とみなされがちな女性にふさわしい学問領域は,情感の豊かさが求められる文学や日常的な実践領域としての家政学である。男性が優位な社会においては往々にして,女性に「賢さ」は不要としながらも母は賢くなければならないというダブルスタンダードがあり,良妻賢母教育を引き受けることをミッションとする大学も設立されている。その一方で,自然科学系の学問領域を選択する女性は少なく,女性は抽象的・論理的な思考力に乏しいといった「神話」を後押ししている。男性優位の社会において大きな軋轢を回避して生きてゆくための「戦略」として,女性が(無意識に)選択しがちな学問領域は社会的に女性が学ぶことが望ましいとされている領域であり,家政学,文学,教育学,芸術学,社会福祉学,保健学,看護学を学ぶ女子学生あるいは教える女性教員が多いという社会的事実によって大学におけるジェンダーは再生産され続けている。
[大学界における女性研究者]
学問的な領域に女性的なるものと男性的なるものの差異が存在するのみならず,女性研究者の大学という界における位置にもジェンダーの問題が横たわっている。20世紀半ば以降に展開されたフェミニズムの社会運動の成果として,女性には狭き門であった総合大学への進学が可能になるとともに研究職への女性の採用も進められた。2011年のOECDの調査によると,大学における女性研究者の割合はイギリス44.2%,ドイツ35.6%,フランス32.8%であるのに比して,日本では総務省の「平成24年度科学技術研究調査報告」によると24.7%にとどまっている。また,首尾よく大学教員として採用された女性研究者が大学という界の中で地位上昇をはかることは,とりわけ日本の社会においては容易ではない。2007年度の「学校教員統計調査」のデータに基づき大学教員の職階別の男女比率をみると,女性が男性を上回るのは助手の51.8%だけであり,助教22.3%,講師26.7%,准教授18.2%,教授11.1%と職階が上がるにつれて減少する傾向にある。また,女性が学長や副学長に就任しているケースは1割にも満たない。
大学という界が依然として男性支配の下に置かれていることが明らかであるが,果たしてこれは女性が理性的ではないからなのだろうか。女性が理性で感情を抑えることが困難であるのに対し男性が十分に理性的な存在であるというのなら,アカデミック・ハラスメントなどという概念は存在すらしなかったのではないか。もちろん,アカデミック・ハラスメントの被害者が常に女性であるということはなく,女性が加害者になることもあり得る。が,理性的であるかのように偽装して自らの感情に由来する理不尽な要求をまくしたてるのは,一般社会においてもそうであるように,自らに権限の拠り所があると誤認し得る立場にある者である。歴史的に構成されてきたジェンダー,「男らしさ」「女らしさ」として表現されるもののすべてが問題であることはない。しかしながら,自らの意思で選択することができない性差によって自己実現が妨げられることがないように努めるのは大学に課せられている大きな宿題である。
著者: 紀葉子
参考文献: ピエール・ブルデュー,ジャン=クロード・パスロン著,宮島喬訳『再生産―教育・社会・文化』藤原書店,1991.
参考文献: 文部科学省科学技術政策研究所第1調査研究グループ「日本の大学教員の女性比率に関する分析」2012:http://hdl. handle. net/11035/1143
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(野口勝三 京都精華大学助教授 / 2007年)
(山口二郎 北海道大学教授 / 2007年)
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もともとは言語学の用語で名詞を性別し分類する文法上の性差を意味していたが,第2波フェミニズム以降,社会的・文化的に構築されてきた性差をさす。『ジェンダーと歴史学』の著者ジョーン・スコットの定義「肉体的差異に意味を付与する知」が知られている。性差は所与のものではなく言語を通じて構築されてきたし,逆に社会や文化もジェンダーを通じて再編成されてきたという前提に立つ。こうした認識により,従来の歴史叙述は人間(=男)の歴史であっただけでなく,ジェンダーに無頓着な叙述も含めて歴史叙述それ自体が男中心の社会や文化の形成に加担してきたことが意識され始めている。また女の「従属と抑圧」を再確認してきた「女性史」の叙述も同様に再検討が迫られている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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