賀茂保憲(読み)かものやすのり

精選版 日本国語大辞典 「賀茂保憲」の意味・読み・例文・類語

かも‐の‐やすのり【賀茂保憲】

  1. 平安中期の陰陽家。忠行の子。暦博士陰陽頭天文博士となり、主計頭、穀倉院別当を歴任。子光栄(みつよし)暦道安倍晴明天文道を伝えた。著に「暦林」など。延喜一七~貞元二年(九一七‐九七七

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「賀茂保憲」の意味・わかりやすい解説

賀茂保憲
かものやすのり
(917―977)

平安中期の天文・暦数家。陰陽道(おんみょうどう)の名流、賀茂忠行生没年不詳)の子。幼にして鬼神を見る才を有したといわれた優れた陰陽家で、暦博士(はかせ)、天文博士、陰陽頭などを歴任し、従(じゅ)四位に叙せられた。暦道を子の光栄(みつよし)(939―1015)に、天文道を弟子の安倍晴明(あべのせいめい)に伝えた。これにより暦道は賀茂家(のちに幸徳井(こうとくい)家ともいう)で、天文道は安倍家(のちに土御門(つちみかど)家ともいう)で世襲することになった。『暦林』10巻の著書がある。

[渡辺敏夫]

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改訂新版 世界大百科事典 「賀茂保憲」の意味・わかりやすい解説

賀茂保憲 (かものやすのり)
生没年:917-977(延喜17-貞元2)

平安中期の陰陽家。賀茂忠行の子。天文,暦道,陰陽道を学び,暦博士,天文博士,陰陽頭となる。ことに陰陽道は,父忠行からその奥義を伝授され,天皇貴族の陰陽道諸祭に従事して,その第一人者となる。952年(天暦6),父のもつ位階を超えて従五位下が授与されようとしたさい,これを父に譲る。みずからの極位は従四位下。天文,暦道を子の光栄(みつよし)に,陰陽道を安倍晴明に伝えた。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「賀茂保憲」の解説

賀茂保憲 かもの-やすのり

917-977 平安時代中期の陰陽師(おんようじ)。
延喜(えんぎ)17年生まれ。賀茂忠行の長男。暦博士,陰陽頭(かみ)をへて天徳4年天文博士,のち主計(かずえの)頭,穀倉院別当を歴任する。子の光栄(みつよし)に暦道,弟子の安倍晴明には天文道をつたえ,以降陰陽道は賀茂・安倍両家によって分担された。貞元(じょうげん)2年2月22日死去。61歳。著作に「暦林」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「賀茂保憲」の意味・わかりやすい解説

賀茂保憲
かものやすのり

[生]?
[没]貞元2(977).2.22.
平安時代の暦道の大家。占いの名人賀茂忠行の子。早く暦博士に任じられ,位階が父をこえそうになったため上書して父の昇進を願ったという。

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