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賀茂保憲 かものやすのり

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

賀茂保憲
かものやすのり

[生]?
[没]貞元2(977).2.22.
平安時代の暦道の大家。占いの名人賀茂忠行の子。早く暦博士に任じられ,位階が父をこえそうになったため上書して父の昇進を願ったという。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

賀茂保憲 かもの-やすのり

917-977 平安時代中期の陰陽師(おんようじ)。
延喜(えんぎ)17年生まれ。賀茂忠行の長男。暦博士,陰陽頭(かみ)をへて天徳4年天文博士,のち主計(かずえの)頭,穀倉院別当を歴任する。子の光栄(みつよし)に暦道,弟子の安倍晴明には天文道をつたえ,以降陰陽道は賀茂・安倍両家によって分担された。貞元(じょうげん)2年2月22日死去。61歳。著作に「暦林」。

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朝日日本歴史人物事典の解説

賀茂保憲

没年:貞元2.2.22(977.3.14)
生年:延喜17(917)
平安中期の陰陽家。賀茂忠行の子。暦博士,陰陽頭,天文博士,主計頭,穀物院別当などを歴任する。『今昔物語集』によれば,10歳ほどのときに忠行に伴われて祓殿に行くと,おそろしい姿の鬼神を目撃し,そのことを父親に語った。鬼神を見ることが難しいことだと知っている忠行は,わが子の天分に驚いて,陰陽道の奥義を残らず伝えたことで,保憲は斯道の第一人者となったという。暦道と天文を司り,暦道を子の賀茂光栄に,天文道を弟子の安倍晴明に伝えた。それ以降,陰陽道は賀茂家と安倍家が分掌するようになったという。入唐僧日延に依頼して新修の暦経を求めるなど,中国の知識の移入にも意を用いた。神護寺で三方五帝祭を行い,八省院で属星祭(開運のためにその年に当たる星を祭る行事)を修すなど陰陽道の祭祀を主宰し,日時や方角の吉凶・災異を占って上申し,陰陽家として活躍した。娘の賀茂女は歌人として有名で,『賀茂保憲女集』がある。著書に『暦林』があるが伝存しない。

(林淳)

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世界大百科事典 第2版の解説

かものやすのり【賀茂保憲】

917‐977(延喜17‐貞元2)
平安中期の陰陽家。賀茂忠行の子。天文,暦道,陰陽道を学び,暦博士,天文博士,陰陽頭となる。ことに陰陽道は,父忠行からその奥義を伝授され,天皇・貴族の陰陽道諸祭に従事して,その第一人者となる。952年(天暦6),父のもつ位階を超えて従五位下が授与されようとしたさい,これを父に譲る。みずからの極位は従四位下。天文,暦道を子の光栄(みつよし)に,陰陽道を安倍晴明に伝えた。【早川 庄八】

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

賀茂保憲
かものやすのり
(917―977)

平安中期の天文・暦数家。陰陽道(おんみょうどう)の名流、賀茂忠行(生没年不詳)の子。幼にして鬼神を見る才を有したといわれた優れた陰陽家で、暦博士(はかせ)、天文博士、陰陽頭などを歴任し、従(じゅ)四位に叙せられた。暦道を子の光栄(みつよし)(939―1015)に、天文道を弟子の安倍晴明(あべのせいめい)に伝えた。これにより暦道は賀茂家(のちに幸徳井(こうとくい)家ともいう)で、天文道は安倍家(のちに土御門(つちみかど)家ともいう)で世襲することになった。『暦林』10巻の著書がある。[渡辺敏夫]

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