日本古代・中世の暦学。天皇の命令によって暦を作ること,またその技術。日本には暦を作る技術はなく,5世紀ごろより朝鮮半島を通じ,後には直接中国の暦法を輸入したが,861年(貞観3)宣明暦を採用してより,1685年(貞享2)日本独自の貞享暦採用まで800年以上も改暦されなかった。律令官制では,中務省所属の陰陽寮(おんみようりよう)に暦博士1人を置いて暦生10人への教授と造暦を行わせたが,10世紀末の暦博士・天文博士賀茂保憲が天文道を弟子の安倍晴明に,暦道を子の光栄に伝えてより,16世紀中ごろに賀茂氏が断絶するまで暦道は同氏の家職となった。暦博士は毎年11月1日に翌年の具注暦(ぐちゆうれき)を天皇に献じ(御暦(ごりやく)の奏),官庁にも頒下した。これには月日とその干支,二十四節気,七十二候,六十四卦や,日の吉凶,日月食の予測などを具(つぶ)さに注記してあるが,日食,月食の予測が的中しないことも多く,算道などの専門家から批判を受けた。しかし具注暦に記された日の吉凶,二十四節気,七十二候などは,日本の民衆生活に深く浸透し,今日に至っている。
→暦(こよみ)
執筆者:今江 広道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
暦術・造暦に関する学問、またそれに携わる人物をいう。602年(推古天皇10)百済(くだら)僧観勒(かんろく)が伝えた暦本を陽胡史(やごのふひと)の祖玉陳(たまふる)が習得したのに始まる。令(りょう)制では陰陽(おんみょう)、天文、漏刻(ろうこく)などとともに陰陽寮の管轄で、日月の度数を計り、暦をつくり、時を授けることを任務とした。わが国では独自の暦法を創出せず、中国の暦法によって算術的に毎年の暦を編纂(へんさん)した。暦道は陰陽道や天文道よりも軽視され、しだいに衰えたため、宣明(せんみょう)暦採用後800年以上も改暦が行われなかった。10世紀後半に賀茂保憲(かものやすのり)が暦道をその子光栄(みつよし)(939―1015)に、天文を弟子安倍晴明(あべのせいめい)に伝えて以来、それぞれの家職となった。賀茂(幸徳井(こうとくい))家は地下(じげ)の家格で陰陽助(すけ)となり、陰陽頭(かみ)となる安倍(土御門(つちみかど))家の被官となった。11世紀初頭以降、仏教系の宿曜(すくよう)道や算道などから暦算の誤りを指摘され、日食の予報も三者によって行われた。戦国時代に賀茂家は絶え、江戸時代に復活し暦注をつかさどった。近世では暦学と称されることが多い。
[岡田芳朗]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
マイナンバーカードを利用して、自治体が発行する各種証明書をコンビニやスーパー、郵便局などで取得できるサービス。申請から受け取りまでの手続きがマルチコピー端末で完結する。2023年12月からはマイナカ...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新