陰陽五行(いんようごぎょう)説を母胎として成立した中国の天文学。6世紀ごろ朝鮮を経由して日本へ伝わった。大宝令(たいほうりょう)の制では隋唐(ずいとう)に倣って中務(なかつかさ)省の陰陽(おんよう)寮に天文博士(はかせ)らの専門職が置かれた。日月、五星、二十八宿などの運行や五雲、十二風気の気色をうかがって気節を知り異変を察する方術で、今日の天文学とは異なる。平安中期から陰陽寮の職務が世業化されるが、賀茂保憲(かものやすのり)が高弟安倍晴明(あべのせいめい)に天文分野を伝えてからその系統に独占され、これを土御門(つちみかど)家という。したがって、狭義の天文道出現は10世紀以後である。以後は天象により吉凶を判ずるのを中心としたから、さらに俗信化していった。その方法、理論は室町初期の『簠簋(ほき)内伝』に集大成されている。17世紀末、江戸幕府が天文方を設けてからその支配力は衰えた。
[下出積與]
太陽,月,星,風,雲などの天然現象を観測し,その変異によって吉凶禍福を判断する術で,陰陽道(おんみようどう)と深い関係にある迷信的なものであった。日本には7世紀初頭に百済より僧観勒によって伝えられたのが最初とされるが,律令官制では中務省の被管の陰陽寮に天文博士1人を置いてそのことをつかさどらせ,また天文生10人に技術を伝授した。当時,天文に関する図書は関係者以外は見ることを許されず,また天文生は観測結果を他人にもらすことを禁ぜられるなど,厳しく規制されていた。これは天文現象がすなわち天皇の治政の善悪を反映するものと考えられていたからである。異変は密封して奏上された。これを天文密奏という。平安時代中期以降,天文道は陰陽道とともに安倍氏(土御門家)の世襲となり,明治維新に至った。明治政府は旧式の天文道に代わり近代的な西洋天文学を採用した。なお江戸幕府は別に天文方を置いていた。
執筆者:今江 広道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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