質的研究法(読み)しつてきけんきゅうほう(その他表記)qualitative research methods

最新 心理学事典 「質的研究法」の解説

しつてきけんきゅうほう
質的研究法
qualitative research methods

実証的研究におけるデータ収集分析,結果の提示に際して,基本的に数量的な表現形式に依存せず,言語的・概念的な性格をもつ質的データqualitative dataを尊重しながら研究を進めていく方法の総称である。質的方法qualitative methodsともいう。英語表記ではmethodsと複数形が用いられるが,これは多様な方法の集まりであることを示している。含まれる方法には,たとえば文化人類学に始まるエスノグラフィethnography,社会学から広まったグラウンデッドセオリー・アプローチgrounded theory approachやエスノメソドロジーethnomethodology,哲学的な志向をもつ現象学的方法phenomenological methodなどがあるが,それぞれ単なる方法にとどまらない理論的な背景をもっている。

 質的研究法が心理学の研究法として広く認知されたのは,1990年代以降比較的最近のことである。実証的な心理学が19世紀末に確立して以降,科学的な方法とみなされがちだったのは,対象を数量的にとらえ,統計手法を用いて仮説検証的に研究を進める量的研究法quantitative research methodsであった。言語による記述を重視する研究は,それまでもブントWundt,W.の民族心理学やフロイトFreud,S.の精神分析学など皆無ではなかったものの,科学研究としては信頼性reliabilityや妥当性validityの点でいくらか問題をはらむと考えられていた。しかし,20世紀後半以降,言語や物語をモデルとしたナラティブ的転回narrative turnなどの思想的潮流の影響を受け,自然科学的な視点とは異なる対象理解の方法が,人文・社会科学の諸分野で認知されるようになった。質的研究法はそうした背景のもとで,わが国の心理学において注目されるようになったのである。

【質的研究法の背景となる認識論】 質的研究法と量的研究法の違いは,前者データ収集と分析に質的データを用いるかどうかという,単なる表面的なものにとどまらない。研究対象としての「現実」をどのようなものとみなし,それが研究者とどのような関係にあると考えるのかといった,認識論的な前提も異なっているとされることが多い。全般的に量的研究法においては,研究対象としての行動や心理が実体として存在しており,研究者はそれを客観的な立場から知の対象にできるとされる。その背景には,経験的なデータ収集と分析を通じて仮説を検証し,知識を蓄積して現実に少しずつ近づくことができるといった,論理実証主義logical positivism的な前提がある。一方,質的研究法では社会構成主義social constructionism的な考え方のもとで,しばしばそうした前提に疑問が投げかけられる。それによれば,「現実」はだれにとっても同じ単一の実体というよりも,まなざしを向ける側の視点や欲望によって異なる現われを示す多義図形のようなものである。多義図形が複数の「図」を同時に見せることがないように,特定の「図」の現われは別の現われを隠蔽しているかもしれない。その隠蔽に気づかないのは,人が文化的伝統や社会的相互作用のもとで,特定の現われを自明のものとして構成し共有しているためである。同じことは,研究対象にまなざしを向ける研究者に関してもいえる。研究者は神のような普遍的で客観的な視点に立つことはできず,彼らの所属する社会的・文化的な視点に拘束されているほか,研究者集団の中で共有されるものの見方,すなわちパラダイムparadigmにも影響を受ける。

 もちろん既存のパラダイムに即した研究で人びとの問題解決に役立つ知が生成される領域においては,伝統的な量的研究の営みは決して無意味ではない。しかし,変化の激しい現代社会の中ではとくに,人間の心理や行動に関して従来のやり方では対応ができない問題が現われているように見える。そうした問題に対しては,自らの視点を内省的に検討し,別の視点から物事を問い直してみる動機が生じる。質的研究法はこのような局面において,現場でのデータ収集を基に代替的な視点を探索して新たな仮説を生成するためのヒューリスティックスheuristics(発見的方法)を提供している。

【質的研究法が共有する特徴】 前記のように質的研究法は,複数の学派や手続きを含んでいるが,いくつかの特徴が緩やかに共有された家族的な類似family resemblanceを示している。それらの特徴は,いずれも従来の視点から外に出るために有用と思われる構えと関係しているが,以下では相互に関連する四つの特徴に絞って解説を行なうこととする。

 第1の特徴は「意味への関心」である。意味meaningとは直接意識に与えられる物事に結びついて連想される,より重要な何かを指している。その結びつきは,個人の生きる文化・社会の中である程度共有されているが,プライベートなニュアンスもそこに付加されることがある。質的研究では客観的な行動ではなく,背後にあると想定される意味がしばしば関心の対象とされ,それをとらえるためには多かれ少なかれ解釈行為が必要になる。解釈を通じて探究されるのは,個人の属する社会や文化に共通の意味のシステムや,個人の主観的な意味づけである。

 第2の特徴は「文脈への注目」である。文脈contextとは,原義は「テクストとともにあるもの」であり,文脈によってテクストの意味は違ってくる。質的研究においてはデータとなる個々の事象もまたテクストであり,意味を解釈するためには,その事象にかかわる空間的な文脈や時間的な文脈を考慮しなければならない。すなわち,個人のことばも行為も,たとえ主観的な意味づけを反映しているように見えたとしても,それが生成された状況的ないし社会的・文化的な諸条件とのかかわりで解釈されたり,あるいはその時間的な経過や歴史的な背景に戻して理解されたりする必要がある。

 第3の特徴は,「現場でのデータ収集」である。現場fieldとは,人びとの日常的な営みが生起する自然な場のことであり,条件統制がなされている実験室とは対照的な性格をもっている。現場では生活世界に対する個人の意味づけを反映した言動が現われる可能性が高く,実験室内とは異なり,生態学的妥当性ecological validityの高いデータが収集できると考えられる。インタビューにおいても,インタビュイー(面接の対象者)の自由な語りをある程度許容する,半構造化インタビューsemi-structured interviewの形式が用いられることが多い。ただし,現場は多様な条件や要因の絡み合った場でもあり,言動の背景要因を直ちには特定しにくいといった難しさがある。

 第4の特徴は,「帰納的な分析」である。帰納inductionとは個別的な事例から一般的なルールを導き出そうとする推論の形式であり,演繹deductionと対比して用いられる。実験研究で一般的なのは,先行研究の知見をもとに仮説を立て,データ収集・分析を行なってその仮説を検証する仮説演繹法hypothetico-deductive methodであるが,この場合は現場の外部にある仮説が研究の出発点になる。質的研究法では,基本的に現場で直接収集された資料をもとにボトムアップの推論を行なうことが重視される。先行研究の知見は,現場から生成されたアイデアを精緻化したり,その位置づけを明確化したりする際に用いることが多い。

 質的研究法は,以上のような特徴のいくつかを共有しつつ,収集されたデータに応じた工夫を加えながら進められていくが,その成果を評価する基準は十分確立されているとはいいがたい。量的研究法で従来使われてきた信頼性や妥当性といった基準は,認識論的な違いなどから,質的研究法にはそのまま適用できないであろう。近年では,研究対象者や関係者などに結果のチェックを依頼したり,現場における結果の利用可能性を評価したりするなど,独自の評価基準が提案されているが,まだ議論すべき点は多く,今後の理論的な展開が待たれる。 →観察法 →心理学方法論
〔能智 正博〕

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