超勝寺跡(読み)ちようしようじあと

日本歴史地名大系 「超勝寺跡」の解説

超勝寺跡
ちようしようじあと

[現在地名]小松市林町

もと越前藤島ふじしま(現福井市)にあった超勝寺が、一六世紀に一時当地にあったという。その後超勝寺は再び藤島に戻り、現在は福井市藤島町に真宗大谷派の東超勝寺と浄土真宗本願寺派の西超勝寺がある。超勝寺は和田本覚わだほんがく寺と並び越前の真宗本願寺派の中核となった有力寺院である。もと高田門徒で三河国野寺のでら(現愛知県安城市)本証ほんしよう寺の系譜を引く和田信性の開いた本覚寺(真宗大谷派は現小松市寺町、浄土真宗本願寺派は現福井県永平寺町)から分れた。信性の嫡男長松丸の後に、門徒たちが本願寺六代巧如の弟頓円(鸞芸)を迎えて本願寺の一家衆に加わり、藤島に当寺を建立した。創建年代には諸説があるが、応永一四年(一四〇七)説が有力である。藤島庄の公文菅原氏や藤島豊郷の外護を受け、また本願寺の指示によって加賀の直参衆を除く諸坊主衆が与力とされた(反古裏書)。しかし、本願寺派にとって異端と目される要素が比較的強かったためか、蓮如は三代巧遵(頓円の孫)を退け、その子で幼少の蓮超を立てて本蓮ほんれん寺蓮覚の娘を配した。次いで蓮如の娘蓮周を嫁がせて血縁関係を強化している(同書)

以後和田本覚寺と並んで、越前一向一揆の中心勢力に成長するが、永正三年(一五〇六)朝倉貞景に敗れたため、同年七月超勝寺五代実顕は寺基を加賀に移した。これはすでに開基頓円が粟津あわづ保内戸津とづに本蓮寺を開き、さらに浄徳じようとく寺・善福ぜんぷく寺・勧帰かんき寺などを分出させ、南加賀を中心に勢力を浸透させていたことによる(大谷一流諸家系図)。加賀に入った当寺は、まず江沼郡横北よこぎた郷の塔尾とのお(現加賀市)に居を構え、次いで大永五年(一五二五)粟津保はやしおよび二ッ梨ふたつなしに坊舎を移したという(加賀市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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