中国、南越(なんえつ)国の創立者。真定(河北省正定県)の出身。秦(しん)の始皇帝の嶺南(れいなん)経略ののち、南海郡の竜川県令となったが、始皇帝の死後任囂(じんごう)にかわり南海郡尉となった。秦が滅んだ(前207)のちは、自立して隣の桂林(けいりん)・象郡を討ち、南越国を建て、武王と名のり、番禺(ばんぐう)(広東(カントン)省番禺県)を都とした。やがて紀元前202年、即位した漢の高祖劉邦(りゅうほう)はこれを討つ力がなく、使を遣わして趙佗を南越王に封じ和親を図った。ところが呂后(りょこう)のとき、漢が南越への鉄器の輸出を禁じたことから、趙佗は漢に抗し、自ら皇帝を称し、長沙(ちょうさ)郡など漢の南辺を侵し、また隣の閩越(びんえつ)や西甌駱(せいおうらく)をも服属させた。しかし、文帝が前180年に即位し、ふたたび使を遣わして和を図らせてからは、趙佗は表面上漢に臣事したが、国内では引き続き皇帝を称した。
[藤原利一郎]
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…秦代に始皇帝が大軍を派遣して征服し,南海,桂林,象の3郡を置いた。秦末,中原の混乱に乗じて趙佗が南越国を建てたが漢に滅ぼされた。漢は南海,儋耳(たんじ),合浦,蒼梧など嶺南9郡を置いて漢人の移住を推し進めた。…
…秦の始皇帝が前220年に50万の大軍を派遣して嶺南を征服し,ここに番禺県を置き南海郡の治所とした(前214)。のち中原の混乱に乗じ,趙佗が前203年に南越国を建てここを都としたが,前112年に漢に攻め滅ぼされた。漢の武帝は漢人の罪人を移住させて漢化政策を推進し,また南方の特産であった犀角,象牙,翡翠,珠璣などを番禺に集荷し,中原に積み出した。…
※「趙佗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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