趙佗(読み)ちょうた

精選版 日本国語大辞典 「趙佗」の意味・読み・例文・類語

ちょう‐た テウ‥【趙佗】

中国、秦末の群雄一人尉佗とも。真定(河北省正定県)の人。秦末の内乱に乗じて、番禺広東省広州市)に都し、南越国武王と自称した。後に漢の高祖南越王に封じられた。前一三七年没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「趙佗」の意味・わかりやすい解説

趙佗
ちょうた
(?―前137)

中国、南越(なんえつ)国の創立者。真定(河北省正定県)の出身。秦(しん)の始皇帝の嶺南(れいなん)経略ののち、南海郡の竜川県令となったが、始皇帝の死後任囂(じんごう)にかわり南海郡尉となった。秦が滅んだ(前207)のちは、自立して隣の桂林(けいりん)・象郡を討ち、南越国を建て、武王と名のり、番禺(ばんぐう)(広東(カントン)省番禺県)を都とした。やがて紀元前202年、即位した漢の高祖劉邦(りゅうほう)はこれを討つ力がなく、使を遣わして趙佗を南越王に封じ和親を図った。ところが呂后(りょこう)のとき、漢が南越への鉄器の輸出を禁じたことから、趙佗は漢に抗し、自ら皇帝を称し、長沙(ちょうさ)郡など漢の南辺を侵し、また隣の閩越(びんえつ)や西甌駱(せいおうらく)をも服属させた。しかし、文帝が前180年に即位し、ふたたび使を遣わして和を図らせてからは、趙佗は表面上漢に臣事したが、国内では引き続き皇帝を称した。

[藤原利一郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「趙佗」の意味・わかりやすい解説

趙佗 (ちょうた)
Zhào Tuó
生没年:?-前137

南越(なんえつ)国初代の王。尉佗(いた)ともいう。真定(河北省正定県)の人。秦の始皇帝が揚越(今の広東省)を攻略し桂林,南海,象郡の3郡を置いた際,南海の竜川県の県令に任じられたが,秦末の混乱に乗じて桂林,象郡を併せて自立し,南越国の武王と号し番禺(ばんぐう)(今の広州市)に都した。漢が興ると,高祖は陸賈(りくか)を遣わし,趙佗を南越王に封じて和親を結んだ。呂后のとき離反して漢の辺郡を侵したが,文帝が即位して再び陸賈を派遣するにおよんでようやく帰順した。以後は漢の臣と称し,毎年使者を送った。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「趙佗」の意味・わかりやすい解説

趙佗
ちょうだ
Zhao Tuo; Chao T`o

[生]?
[没]建元4(前137)
中国,前漢時代の南越国初代の王 (在位前 206~137?) 。武帝と号す。真定 (河北省) の人。秦のとき南海郡竜川 (広東省) の県令,秦,漢交代期に南海都尉となった。やがて独立して桂林,象両郡を合せて南越を建て,前漢の高祖陸賈 (りくか) を使者とし独立を認めた。次の呂后のとき佗は長沙 (湖南省) に侵入したが,文帝が立つと再び陸賈が使者として南越におもむいたので,佗は帝号を用いないこと,毎年入貢することなどを約した。景帝の時代を終るまでこの状態は続いたが,彼は南越国内では依然帝号を称していた。建元4 (前 137) 年佗の孫の胡が立ち,南越はやがて滅亡した。

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世界大百科事典(旧版)内の趙佗の言及

【広東[省]】より

…秦代に始皇帝が大軍を派遣して征服し,南海,桂林,象の3郡を置いた。秦末,中原の混乱に乗じて趙佗が南越国を建てたが漢に滅ぼされた。漢は南海,儋耳(たんじ),合浦,蒼梧など嶺南9郡を置いて漢人の移住を推し進めた。…

【広州】より

…秦の始皇帝が前220年に50万の大軍を派遣して嶺南を征服し,ここに番禺県を置き南海郡の治所とした(前214)。のち中原の混乱に乗じ,趙佗が前203年に南越国を建てここを都としたが,前112年に漢に攻め滅ぼされた。漢の武帝は漢人の罪人を移住させて漢化政策を推進し,また南方の特産であった犀角,象牙,翡翠,珠璣などを番禺に集荷し,中原に積み出した。…

※「趙佗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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